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中沢新一 『レヴィ=ストロース・野生の思考』(NHK100分de名著)

 「NHK100分de名著」とは、「世界の名著を読もう」的な教養番組のための薄い教科書シリーズ。地デジ2チャンネルで放送されているらしい。そのうちの一冊である中沢新一氏のこの本をたまたま本屋で見つけ、パラパラめくっていたら、あの難しいレヴィ=ストロースの『野生の思考』が寝ながらでも分かるようにレクチャーされていた。

 p16-7

 構造主義の最初の着想

 人間の思考は自然が作り上げたものです。宇宙の全体運動の中から地球が生まれ、地球に生命が誕生し、生命の中から脳細胞がつくられ、そこに精神が出現するようになります。精神というモノが自然から生まれたからには、精神の秩序は、そこから自分が生まれた自然界の秩序と連続性を持っているのではないか。
 しかしそこには両者をへだてている非連続性があることも事実です。この連続性と非連続性を同時にとらえることができないだろうか――。それが最初の構造主義の着想でした。自然界の中から生み出された生命の延長上に生まれる「人間の精神」の構造。この精神の構造と自然界の構造を、一つの全体としてとらえることで、精神の秘密にせまろうという思想です。

p47-8

 ありあわせの野生知財をブリコラージュ(つぎはぎ)してヒトは前に進む

 6~7万年前の後期旧石器時代に人類の脳構造に飛躍的進化が起き、クロマニヨン人などのホモ・サピエンスが、脳構造が変わらなかった「旧人」を駆逐しました。それ以来人間の脳の構造は変化していません。6~7万年前の後期旧石器時代が呪術を行っていたのとまったく同じ脳が、いま量子論や宇宙物理を思考しています。新石器革命を通じて、旧石器的知識の組織化が行われ、それ以降、現在まで文化は大きく変化しました。
 それでもそこで活動する知性は6~7万年前の知性と同じものであり、呪術を行っていた人類と科学を行っている人類は、同じ心の構造を持っています。その「同じ心の構造」を例示するものの一つに「ブリコラージュ」があります。ブリコラージュとは「日曜大工」とでも訳せばいい言葉で、<ひとはある新規なものを突然作ることはできない。誰でも身の回りにある材料を再利用し、それらを組み合わせながら自分のイメージに近いものに仕上げていく>という意味です。
 あのニュートンにしても『プリンキピア』を書き上げた後の興味の対象は錬金術占星術にありました。古代エジプトの時代から少しずつ工夫され改良されてきた(現代から見れば幼稚そのものに見える)知的財産身をさまざまにブリコラージュして、(現代科学が迷信の代表として激しく糾弾する)星占いと錬金術に没頭し、新しい宇宙像をつくろうとしていたのです。

 p6・79-81

 レヴィ=ストロースの『野生の思考』が戦いを挑んだのは、19世紀のヨーロッパで確立され、その後人類全体に、とくに政治家、経済人のほとんどすべてに大きな影響力をふるってきた「歴史」と「進歩」の思想です。
 「歴史」と「進歩」の思考方法は、現在でも変わらずに大きな影響力を持ち続けています。右の人々も左の人々も、根底では同じ「歴史」と「進歩」の思考によって動かされています。この点では右も左も同じなのですが、彼らはこのことに気づいていません。今の「進歩」を500年続ければどこに行きつくのかに気づこうとはしません。
 私たちはいま、コンピュータを身近にもつようになりましたが、人類の思考は6~7万年前の突然の進化によって、最初から完成されていました。人類が人類となったそのときにつくられた脳の構造を、私たち現代人もいまだに使って思考しているのです。コンピュータはそういう人類によってつくられたものですから、コンピュータという思考機械も基本設計は、<身の回りにある材料を再利用し、それらを組み合わせながら自分のイメージに近いものを仕上げていく>あの「ブリコラージュ」という「野生の思考」を行う脳と少しも変わりません。なぜなら、地球上に発生した生命の中に知性が生まれ、それはついには人類の知性にまで発達しましたが、その進化の過程はすべて地球の内部で起こったもので、外から何かがやってきたおかげではないからです。生命は自分の手持ちの材料とプログラムだけを用いて、それらの組み合わせを新しく作りかえることだけによってしか、進化をなしとげることはできません。
 そういう意味で、「歴史」とか「進歩」とかは、神経線維の情報処理によって出力されたただの前のめりの「観念」であり、コンピュータという「野生の思考」を行う機械が画面上に映し出した「文字」にすぎません。「歴史」とか「進歩」とかは、生命として体内から発する材料でもなければ、体内から発するプログラムでもありません。

 

丸山真男 『「文明論の概略」を読む』上(岩波新書)2/3

 第3講 西洋文明の進歩とは何か――野蛮と半開

 上巻 p104、 106−7
 「御殿女中根性」が幅効かせる半文明化社会
 福沢は幕末維新期の日本を野蛮期と文明期の中間段階にあるとしています。特色ある考えではないのですが用いられている言い方が興味深い。とくに社会関係について <人間交際については猜疑嫉妬の心深しと雖も、事物の理を談ずるときには疑を発して不審を質すの勇なし。> 猜疑嫉妬の人間不信が強いのに、それを言葉にして問いただす勇気がないということ、すなわち「怨望」の念に支配されている人が多いという。
 簡単にいうと御殿女中根性です。福沢は『学問のすゝめ』の一篇でこの「怨望」を口をきわめて攻撃していますが、そこでも具体的なイメージモデルは御殿女中です。御殿女中の出世は殿様の気まぐれなご寵愛しだい。この社会では誰が殿様に気に入られるか、その見通しがまったく利かない。女中の個人としての才覚はほとんど何の役にも立たない。他人がお引き立てを受けても、客観的に認識する方法がないのだからそれに学ぶこともできない。そうすると、ただ羨むだけ、嫉むだけとなる。
 この社会では、つまりすべてが人間関係に解消される。物事を見ないでまわりの人だけ見ている。そして羨み、嫉む。人が自分より優位に立つとそれを引きずりおろして彼我の平均をはかる。福沢は、これはひとつには孔子の考えに責任があるという。孔子は「女子と小人は養いがたし」と嘆いたけれど、孔子たち身分のある男たちは女子や小人の輩を束縛して彼らの働きに自由を与えなかった、そのために怨望の気風が生じたので、孔子の嘆きは自業自得ではないかというわけです。

 第4講 自由は多事争論の間に生ず

 上巻 p156-7
 福沢は儒教文明を非常に問題視しています。自由の敵として儒教に対し、ほとんど憎悪に近い感情を持っている。儒教帝国としての清朝中国――こういう見方をしないと福沢の中国は理解できません。
 その中国の独裁皇帝政治にのありかたに関連して、福沢は日本の歴史で武家政治が出てきて皇帝親政を排し、<益々君上を神視して、益々愚に陥る災厄を防いだ画期的意味>を言っています。
 ところが福沢以後、近代日本の運命は福沢の命題にとっては皮肉なことになりました。私たちの世代が暗記させられた軍人勅諭に 「朕は汝ら軍人の大元帥なるぞ」 といい、だから今後は朕が親しく兵馬の権をとる、そうして「再び中世以降のごとき失態なからんことを望むなり」とあります。軍人勅諭によれば、武家政治は中世以来700年間もの「失態」だったのです。軍人勅諭は福沢のこの本の出た数年あと、明治15年に発布されました。
 だから「侍」のエートス軍人勅諭を基礎とする近代日本の軍人精神とは非連続なのです。後者の、国家による武装の立場から批判すれば、自己武装の原則に立った武士の存在は、700年間にわたる「失態」にほかなりません。武士道の連続的伝統を説く論者は、新渡戸稲造から三島由紀夫まで、そのへんをまったく混同しているように思われます。

丸山真男 『「文明論の概略」を読む』上(岩波新書)3/3

 第5講 国体・政統・血統―――国体の定義

 上巻 p167-8
 幕末・維新期は西欧列強の帝国主義政策によって日本の独立が激しく揺さぶられたときでもありました。いわゆる「国体」の維持をめぐる大変な時期です。この「国体」という言葉ほど、日本の近代を通じておどろくべき魔力をふるい、しかも戦後、急速に廃語になった用語は少ないでしょう。福沢はこの「国体」について<その人民、政治の権を失ふて他国人の制御を受くるときは、国体を断絶したるものと云ふ>と明解な考えをあらわしています。ですから彼の定義によれば、日本はこんどの敗戦において国体は一時断絶したことになる。マッカーサー司令部の力に天皇が従属したのだから、国体は断絶した。この場合、君主がいても統治権を持たないのだから、国体が続いているとはいえない。
 ポツダム宣言受諾をめぐって最後まで御前会議で紛糾したのが、国体が変更されるかどうかということでした。あんなギリギリに至るまで、支配層の中でさえ国体についての定義が決まらなかったのです。明治以来それまでに定義が明白になっていたなら、もめることはなかった。
 ポツダム宣言ではただ「日本国の将来の統治形態は日本国民が自由に表明した意思によって決せられる」とあるだけです。日本側は「君主制は維持されるのか」と問い合わせます。そして連合国の回答はポツダム宣言を繰り返すだけでした。そこで、これを受諾することではたして国体が維持されるかどうかで最後まで解釈が分かれ、結局最後に、天皇が自分は護持されたと解釈するという「聖断」を下したので終戦が決まるのですが、宣言の解釈が決まらず、御前会議がもめているあいだに原爆が投下されたのですから、御前会議の不決断はずいぶん大きな犠牲を払ったものです。

 第6講 文明と政治体制―――政府の体裁のおける名と実

 上巻 p239・242
 福沢の政治論の基本命題は、<すべて世の政府は、ただ便利のために設けたるものなり>というものです。維新直後においては、大変にショッキングな命題だったはずです。
 今日では誰でもこの程度のことは言うでしょうが、これが書かれたのは、お上というものは絶対であり、お上のありがたい御恩のおかげで、私ども庶民は安穏に生活できるのだという考え方が、ほとんど疑いもされず通用していた時代です。君臣の義は五輪の筆頭に位し、それは人の天性であると朱子学が教えていた。
 それだけでなく、幕府のことを公儀というように、公というのが政府であった。そのように政治権力が絶対視されていた時代に、福沢は「政府は、世の人々が生活しやすいように、もろもろの制度や文物を整えていくためにだけ存在しているのだ」と大胆なことを言ったのです。
 ・・・・・・だから福沢は「君主制も必ずしも不便ならず、共和制も必ずしも良ならず」といって、政治は社会の一ファンクションにすぎないと念を押します。イギリスやオーストリア君主制がいいからと言って、清朝のそれもいいと言うわけにはいかない。アメリカの共和政がいいからといって、革命直後のフランスの苛烈な共和制にならうわけにはいかない、と。
 プラグマティストでもあった福沢は「名を争ふて実を害する」ことこそ、日本の深い精神病理である「惑溺」そのものである考えていました。もし福沢が現代に生きていたら、おそらく、「社会主義」国家や「民主主義」国家という名にとらわれてはいけない、とここで言ったでしょう。

丸山真男 『「福沢諭吉・文明論の概略」を読む』上(岩波新書)1/3

 名著の30年ぶりの再読。今の政治学者、メディアの論説家は「一党派に与せず」を臆面もなく旗印にする。その結果はもちろんメディア露出度の高い体制を擁護することになる。体制は、たまには失言したりするものの、たいていは耳触りのいい表現で時局を説明し、それを何度も繰り返すことで、大衆の過半数は納得した気になってしまうものだからだ。
 かれらは丸山のような批判精神を「エビデンスに乏しいからポリティカリー・コレクトではない」とする。秀才の彼らはエビデンスをネットで探し回って、おしゃべり人形のように多弁であるが、その言説はグーグルの人工知能が書いた文章のように魅力がない。
 『文明論之概略』は福沢諭吉ほとんど唯一の体系的文明論書である。明治維新のわずか8年後、民心の気風がまだまだ江戸時代を離れなかったとき、その闊達にして大胆な文章であらわされた自国文明に対する深い憂慮は、和魂だ、洋才だと騒ぐばかりの知識階層を驚嘆させた。

序章 古典からどう学ぶか

 上巻 p4-6
 いわゆる古典離れの背景には二つの要素があります。ひとつは古典が持つ「客観的な規準」、「確立された形式」と、それに対する日本人の「内発的なエネルギー」の無定形性という要素。いま一つは、新品・新型を絶えず追いかけていないと時代遅れになるという心理傾向。この二つはなにも「今どきの若いもの」に限られたことではありません。
 この読書会でそういう日本文化論を述べ立ててもキリがありませんが、簡単に私の独断を言えば、そもそもわが国の文化に規範とか形式性を与えたのは、古代では中国であり、近代では西欧だったという事情があげられます。
 つまり学問でも芸術でも客観的形式とか、典則という意味でのクラシックはもともと外国由来のものだったわけです。だからどうしても、そうした形式への反逆は、「外来」対「内発」という、本来の問題の次元とは別の次元の問題にすり替わりやすい。そうして、日本の内発性の探求は無定形(アモルフ)なエネルギーもしくは「構成」以前の情念の流れに行き着き、そこに「日本人」の本源的なものを見ようとします。
 形式への反逆は、いうまでもなく西欧ではロマン主義的思考の特徴ですが、日本では「三史五経のみちみちしきかた」(紫式部)への違和感の方が先行しているので、極端に言えば、日本では歴史的順序は古典主義からロマン主義へではなくて、むしろ「はじめにロマン主義ありき」ということになってしまいます。

 いや古典離れはそんな長い由来に根ざしているのではない、現にわれわれの時代はもっと東西の古典になじんだものだ、という異論が戦前・戦中派から出されることがあります。とくに旧制高校をなつかしがる人たちから出そうです。
 10年前にわたしはフランクフルトにあるゲーテ・ハウスに立ち寄ったことがあります。そこに訪問者の記帳簿があったのですが、わたしが驚いたのは日本人の名前が非常に多いだけでなく、立派な肩書の付いた名刺が残されていることでした。こういう人たちはさだめしこの記念館に立ち寄って、たとえ『ファウスト』でなくても『若きウェルテルの悩み』とか、エッケルマン『ゲーテとの対話』を読んで、友と熱っぽく語り合った思い出にしばし浸ったことでしょう。
 しかし、何々省何々局長や何々会社代表取締役という方々にとって、青春時代の古典の読書は単なる「ナツメロ」になっていないでしょうか。古典への親しみなるものが、多くは「俺も昔は読んだものだ」という一過性現象であるところに、旧制高校的「教養主義」のひ弱さがあるように思います。読書量の何パーセントが実際の精神活動のエネルギーになっているかという入力と出力の比率をとってみると、「今どきの若いもの」を貶してばかりいられないような気がします。

 第1講 幕末維新の知識人
 上巻 p33-5
 福沢諭吉は天保5年に生まれています。天保というのは江戸末期のなかでは珍しく15年も続いた年号ですから、天保生まれの著名人はなかなか多い。「天保の老人」という有名な言葉があります。
 天保の老人、つまり福沢と同世代にどういう人たちがいたか、思いつくままに挙げてみます。まず吉田松陰。福沢よりわずか四つ年上です。橋本左内は同年。坂本竜馬は一つ下。高杉晋作は五つ下、久坂玄瑞は六つ下。つまり安政の大獄や維新までの動乱の中で死んだ志士たちは福沢と同世代なのです。明治の元勲といわれる人も圧倒的に天保生まれです。大久保、木戸をはじめ、山形有朋、大隈重信伊藤博文井上馨松方正義黒田清隆、みんなそうです。西郷隆盛だけがちょっと年長です。
 坂本竜馬高杉晋作が福沢と同年あるいは年下というのはちょっとイメージしにくいのではないでしょうか。福沢の維新直後の書物がベストセラーとなり、しかも彼は明治34年まで生きているのですから、福沢というと明治の人で、幕末の志士たちとは時代が一段階ちがっているように思われています。
 一方、「天保の老人よ、去れ」と言った徳富蘇峰明治維新の直前に生まれており、その少し上に三宅雪嶺がいます。文学者でいうと、北村透谷、徳富蘆花明治元年田山花袋島崎藤村徳田秋声が明治4、5年に生まれています。なぜか自然主義派が多い。この人たちは幕末維新の大変動をほとんど知らない、はじめから「明治の御世」に生まれた世代です。(ちなみに夏目漱石は維新直前の生まれ。漱石が福沢に言及したことはまったくないということだが、『吾輩は猫である』などの厳しい時代批判には、福沢の本書を下敷きにしているらしいところがいくつもある。)
 この二つの世代の間に自由民権のイデオローグたちがいます。中江兆民は福沢より12歳下、馬場辰猪は15歳下、植木枝盛は22歳下です。今日から見ると植木枝盛と福沢は同じ時代のように見えますが、22歳下といったら、これはたいへんな違いです。福沢を読むときはこれらのことを心にとめておくといいと思います。

丸山真男 『開国』(岩波・著作集第八巻)

 「絆」と「和」は社会が閉じていることを表すキーワードである

 開国とは、国家がいろいろな意味で「閉じた社会」の状態から「開いた社会」の状態に移ることを意味する。そして「国家」はその成員のすべての団体――藩であれ県であれ、会社であれ町内会であれ、学校であれPTAであれ――を包含するものであるから、ひとたび国家が国際社会に開かれるとき、国内のすべての団体はその影響を受けざるを得ない。
 本論で論じられる幕末の開国だけが、閉じた社会を開いた社会に変化させたわけではない。本論が書かれる20年前の敗戦もまた、明治の開国以後も牢乎として根を張ってきた閉じた社会を開く絶好の契機になるはずだった。

 p45−53
 閉じた社会とはいうまでもなく上は祭政・教学の始祖・教祖の権威が真理価値と合体し、下は家元・師匠の権威が美的・倫理的価値と合体するように、政治的権威が道徳的ないし宗教的価値と合一するような基本的傾向性を持つ。
 そこでは自己以外の権威や流派という「反対者」は殲滅すべき敵ではあっても、それとの討論・競争を通じて客観的価値に接近してゆくための必要な「対立者」ではない。門弟が家元・教祖を批判することや、独自な方向を選択することは、家元が価値の体現者である以上、ほとんど必然的に真理や美それ自体への反逆であり、価値秩序のアナーキーを意味する―――、それが「閉じた社会」というものだった。
 知られていることだが、日本語の討議・演説・会議・可決・否決・競争というような言葉は、いずれも維新当時において福沢諭吉ら洋学者の苦心の造語によるものである。そうした言葉がそれまでの日本になかったということは、とりもなおさずそれに相当する概念すらが維新当時にはなかったことを物語っている。
 『福翁自伝』の回想によれば、彼がまだ幕臣であったころ、チェンバーズの経済論を翻訳し幕府勘定方の役人に見せたところ、「競争」の争という字は穏やかではなく、このままでは御老中方へ御覧に入れるわけに行かぬ、と言われたという。「(こともあろうに人間行動の基本を論じる)経済書中に、「人間たがいに相譲る」とかいうような文字が見たいのであろう、この一事でも幕府全体の気風は推察できましょう」と福沢はあきれている。
 第2の開国がなされた敗戦から70年、十分に開かれたはずのわが社会である。その社会において、文武百般、政界から文壇まで、柔道からお茶お花まで、タコ壺に閉じこもった流派の家元がいまだに価値の体現者であるのはなぜなのか。陰湿な会社内の気配り競「争」に敗れた若者が「リア充」なる奇怪な言葉を作り出し、しかもそれを面白がって流行させるわがメディアの気風とはなんなのか。
 (「リア充」とは、実際の現実の生活(リアル生活)が充実している人間、恋人や友人付き合いに恵まれた人間のことを言うらしい。当然、「リアル生活」の語の裏側には「仮の生活」が想定されているわけで、「会社内の競争」に敗れた若者は自分たちの敗北を「仮の敗北」と認定し、ほんとうの敗北とは認めない、したがってあまり反省しないという心性を持っている。会社での勝ち負けなんてタテマエ社会での勝ち負けなのさ、俺はいま探しているホンネ(リアル)社会で負けはしないさ、というわけである。ただし勝利、敗北とは何なのかということは、「いまはリア充」の人は問わないらしい。)

カミュ 『転落』(新潮文庫)

 『転落』が出されたのは1956年のこと。「革命か反抗か」というサルトルとの有名な論争の4年後である。この論争で、哲学者でないカミュは、サルトルの切れ味鋭く容赦ない論理の力に完全に打ちのめされた。論争は西欧人特有の「歴史」観をめぐるものだったが、サルトルマルクスレーニンの「世界歴史の発展段階理論」とデカルトの人間理性万能主義によって重武装しており、小説家であるカミュはこと「歴史と知識人」というようなテーマでは、サルトルに歯が立つわけがなかった。
 ジャンソンという当時気鋭の左翼思想家の挑発に乗って相手側の土俵に載せられてしまったカミュは、当然ながら体系的な歴史観を持っていないことが暴露され、有名作家として哲学の知識が乏しいとまで侮辱された。カミュのファンは『革命か反抗か』を読みながら、さらし者になるカミュが可哀そうでならなかった。

 1957年にはノーベル賞を受けるが、もちろんカミュは終生この屈辱を忘れることはなく、フランス文壇では孤立した人になっていた。『転落』はこの時期に書かれたのだが、『異邦人』や『ペスト』と比べて、これがムルソーやリウーという英雄的主人公を作り出したカミュの作品かと思わせるほど作風が全く変わっている。
 主人公の名はジャン・バチスト・クラマンス。なぜか「世界に嘲笑られること」をいつも恐れている男である。この名前自体が「荒野で叫ぶ洗礼者ヨハネ」のもじりらしいが、この男に自分を投影した執筆時のカミュの気分が想像される。
 小説の中では、人間の誠実、正義、連帯、勇気などあらゆる概念の欺瞞性と二重性が、クラマンスの長大なモノローグの中で抉り出される。しかもその舞台がカミュには似合わない重苦しい雲が覆う北ヨーロッパアムステルダム北アフリカの明るい太陽になれた読者は最初からまごついてしまい、暗い気分に落とされてしまう。サルトルに八つ裂きにされたことで、ここまでカミュは「転落」してしまったのだろうか。
 もちろんその後のサルトルカミュの位置関係については、大きな皮肉が起きたことは多くの人が知っている。カミュが1960年に「失意のうちに」自動車事故で死んでから2年後、あのレヴィ=ストロースは、主著のひとつ『野生の思考』のなかで、歴史は合理的に発展しなければならないものではない、サルトルルネサンス期のような理性万能主義で歴史を裁断するのは、西洋とはまったく異なる歴史のとらえ方があることを知らない田舎者の独善であると断罪した。
  内田樹氏よれば、『野生の思考』のなかでのレヴィ=ストロースの言葉には軽蔑といっていいほどのものが含まれている。墓の中のカミュが以下の数行を読んだらどれほど慰められただろう。
 
 「人間性のすべては、人間のとりうるさまざまな歴史的あるいは、地理的な存在様態のうちただ一つのものに集約されるべきであると信じ込むためには、かなりの自己中心主義と愚鈍さが必要だろう。
 「サルトルが世界と人間に向けているまなざしは、野生=閉じられた社会とこれまで呼ばれてきたものに固有の狭隘さを示している。
 「サルトルの哲学のうちには、野生の思考の多くの特徴が見いだされる。それゆえに、サルトルには野生の思考を査定する資格はないと、私たちには思われる。 逆に、民族学者にとって、サルトルの哲学は第一級の民族誌的資料である。 私たちの現代の神話がどのようなものかを知りたければ、これを研究するのが不可欠であろう」・・・・・・・。

カミュ 『ペスト』(新潮文庫)

 学生以来の再読。ペストとはナチズムのことだとして読むと分かりやすい。学生の頃、ハナ・アーレントの本はまったく知らなかったからそのような視点は持つことができなかった。
 (アイヒマンのような)ごく陳腐な人間が方法的に組織されたとき未曽有の悪を実行することと、ごく陳腐な桿菌の一種であるペスト菌が「環境条件」次第では一国を滅ぼすような悪を実行することは、生物社会学的には同じレベルの話である。
 だから、攻撃される側の対応策も似たようなものになる。「環境条件」を挙げれば、どちらも、全員がパニックに陥って逃げ惑うことが最悪の結果につながる。八割の人間が逃げ惑うのは仕方がない。残りの二割の中に、敵の 弱点を探り、味方の連絡網について考え、わずかな武器を効果的に使える勇気ある人間がどれだけいるかで、すくなくとも全滅を避けることができる。

 フランスレジスタンス戦線を率いたカミュを思わせる医師リウーが主人公。(アウシュビッツのように)死者の山を塹壕に埋めなければならなくなったことによって、宗教思想を急転させるイエズス会修道士パヌルー、毎日の患者数を愚直に記録し続けて大局的な病勢把握に貢献をした老官吏グラン、ペストとは何かというスコラ的思索ノートを書き続けるタルー、正しい意味での聖女のようなリウーの優しい母親、たまたま訪れた街がそっくりそのまま伝染病隔離され、帰れなくなってしまった新聞記者ランベール、ペスト非常事態のおかげで警察の追及を逃れ続けている犯罪者コタールなど、幾人かの目立った人物が登場する。彼らはみなナチス=ペストに取り囲まれた状況での生き残りかたを、それぞれの生き方で示すのだが、誰ひとりヒーローとして果敢な行動示すのではなく、ただパニックになることだけを強い意志で抑えて、そのことが市民生活が全体として内側から崩壊するのを防ぐことにつながっていく。
 若きカミュが対ナチレジスタンス戦線で果たした大きな仕事を考えれば、次の書き抜きのなかの「ペスト」はあきらかに「ナチズム」だ。すなわち、「ごく普通の人々の陳腐な悪」が組織化されたときのすさまじい世界である。であれば、レジスタンス側も「ごく普通の人々のすさまじく陳腐な善」を徹底しておし進めなければならない。
 p194-5
 ペスト保健隊で献身的に働いた人々も、事実そう大して奇特なことをしたわけではない。彼らはなすべき唯一のことを知っていたのであって、それを決意しないことの方が、当時としてはむしろ信じられぬことだった。こういう隊が作られたということは、市民たちが深くペストの中に入り込むことを助け、病疫が現に目の前にある以上は、それと戦うためになすべきことをなさねばならぬということを、彼らが納得したということである。こうしてペストは現実にそのあるがままのもの、すなわちすべての人々にかかわりのある事件として、市民の目に映るにいたった・・・・・・・。
 ・・・・・・当時は大勢の新しい道学者が市内に横行し、ペストの前には何ものも役に立たないし、ひざまずくより仕方がないとふれ歩いていた。しかしリウーやタルーや彼らの友達の結論は、しかじかの方法で戦うべきで、ひざまずいてはならぬということであった。できるだけ多くの人に、死んだり最期の別離をさせないことであった。そのためにはペストと格闘する以外に方法はなかった。彼らにとってこのことは別に驚嘆することでもなんでもなく、ただ当然に帰結であったにすぎない。
 p202-3
 彼らがいわゆるヒーローなるものの手本であるかといえば、彼らにはわずかばかりの心の善良さと、一見滑稽な理想があっただけである。・・・・・・彼らが善き意志を持っていたことは確かであり、それが生命の危険を冒していたことも事実である。そして歴史においては、これらの意志や行動が死を以て罰せられることがあることも彼らの知るところであった。しかし彼らにとっては、いかなる懲罰や褒章が自分たちを待ち受けているかを知ることではなかった。彼らの決すべきことは、自分たちが果たしてペストの中にいるか否か、そしてそれに対して戦うべきか否か、ということであった。
 だから、彼らがヒーローであるかどうかは第二義的なことにすぎない。彼らが幸福の追求者であったかどうかこそまず問われるべきであり、彼らのヒロイズムはその次の問題である。当時空路と陸路から送られてくる救助物資と同時に、毎晩、電波であるいは新聞紙上で、同情と称賛の言葉の洪水がこの孤立した街にとびかかってきた。そしてそのたびごとに、叙事詩調の、あるいは受賞演説調の調子がリウーたちをいらいらさせた。
 もちろんリウーたちは外の人たちからの心遣いが見せかけではないことを知っていた。それは外の人たちは、自分を「人類の戦い」に結びつけるものを表現しようとする場合、慣例的な「言葉」を使う以外方法がなかったからである。支援の「言葉」とはそういうものであり、戦いの外にいる人たちはその言葉しか使うことを知らないのであり、戦いの場にいる人たちはどうやってもその無神経さにいらついてしまうのである。ゲシュタポペスト菌は「言葉」など知ったことではないことに外の人たちは気づかないからである。