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バートランド・ラッセル 『西洋哲学史 3 哲学上の自由主義』(みすず書房)

 イギリスが「名誉革命」をなしとげた1688年前後の政治思想状況を簡潔にまとめた一章。贅言を用いない文章の内側に、超一級の頭脳に恵まれたバートランド・ラッセル卿らしい皮肉とユーモアが隠されている。

 p593-6

 17世紀に発達したロマン主義の精神運動は、ルソーとともに始まり、その個人主義は知的な領域から情熱の領域にまで拡大され、ロマン主義個人主義の無政府的諸様相があらわになっていった。そしてロマン主義は国民思想としては当然ながら国粋原理の称揚につながり、政治的な力を獲得していった。・・・この運動の中には発達期の産業主義に対する嫌悪があり、産業主義の残酷さに対する反発があった。さらに、取り残された人々の中世に対するノスタルジアもあって、近代世界に対する憎悪の裏返しとして中世は理想化されていた。行き過ぎたロマン主義個人主義や近過去へのノスタルジアが国粋原理の称揚に容易に結びつくことは、歴史学上の「定理」みたいなもので、地理的・時代的制約はほとんど問う必要がない。
 ・・・この思想運動がひとつの国内で成功すると、それは不可避的に英雄による独裁政治をもたらすものである。そしてその英雄が圧制を確立してしまうと、彼は自分が、それによってのし上がったところの自己主張的な倫理を、他人には認めなくなる。つまり個人が過酷に抑圧される独裁国家というものが誕生する。
 この過程をイギリスにおいて実現したのが清教徒革命後に独裁権を握ったクロムウェルだった。清教徒の反乱は必然的にイングランド各地の人民蜂起につながり、国は内乱状態になった。そのなかで、国王と議会から護民長官に任命されたクロムウェルは議会少数派の「独立会議派」を率いて地位を確立していった。
 当初、数こそ少数派だったが、民衆の中には近代世界に対する憎悪と中世に対するノスタルジアがあり、たくみに民衆の情熱に訴えれば彼らの「新模範軍隊」の志気が圧倒的高まることは潜在的独裁者クロムウェルにとって自明のことだった。彼が民衆の「新模範軍隊」をもって議会を制圧したとき、ロンドンでは恐怖のあまり「犬一匹さえ吠えなかった」といわれている。

・・・1688年の名誉革命が近づく頃、国力強大なフランスでは、ルイ14世が新教と旧教の同権を認めたナントの勅令を撤回して新教徒を弾圧した。その影響でイングランドでは、プロテスタントルイ14世に従順なジェイムズ国王の退位を要求するようになっていた。しかし同時にほとんどすべての人々が、数十年前の内乱とクロムウェル独裁の時代への復帰を避ける決意を固めていた。すなわち政治的ロマン主義をはじめいかなる理論も、その論理的帰結までおし進めることをやめ、妥協と穏健な態度を愛することを、クロムウェル独裁の時代の苛烈さから肝に命じて学んでいたのである。このような(我慢強さと優柔不断が相半ばするともいえる)イングランド人の性向は、現代にいたるまで彼らを支配している。
 名誉革命においては、一発の砲火もなくジェイムズ国王を去らせることに成功し、ジェイムズの娘婿である新しい国王をオランダから迎えることができた。新国王は母国オランダの顕著な通商・神学上の英知をたずさえてやってきた。その結果、イングランド銀行が創設され、国債は確実な投資に回されるようになり、君主の移り気によって簡単に支払いを拒否されることはなくなった。
 それ以後、カトリック信者と非国教派とはさまざまな点で資格を認められないことも続いたが、国家からの迫害には終止符が打たれた。イングランド外交政策は確固たる反フランスとなり、その政策はナポレオンを敗退させるまで続いた。

生田耕作 『ダンディズム』ーー栄光と悲惨(中公文庫)

 著者の生田耕作教授は非常にダンディなかただった。1924年、料亭の板前長を父として京都・祇園に生まれ、あの南座を遊び場にして育ったという。しかし京都は爆撃こそされなかったが、暮らし全般を覆う軍国主義「国家=負なるもの」のイメージを繊細な生田少年に植え付けなかったはずはない。
 わたしが一年だけフランス語の初歩を習っていたときは45、6歳だったことになる。おだやかで端正な顔立ち、脚の長いかっこいい長身をいつも黒っぽい上物のスーツで包み、きれいに磨かれた靴を履いて教壇に立ち、誰かの原書講読をしていた。ただ、フランス語の発音自体はそんなに上手ではなかったと記憶する。

 本書はそのダンディな生田先生が、「ダンディズムの本質はなにか」ということについて「書き散らした(後記より)」短文類を集めたもの。<栄光と悲惨>というサブタイトルが付いている。先生によれば「栄光よりは自ずと悲惨のほうに関心と力点が傾き、全体の構成がはなはだいびつな形に陥ってしまったのは、ひとえに著者の性向のいたせるところ」であるらしい。40数年前の授業中の印象を頭に浮かべれば、先生のこの自己批評は十二分に納得できる。

 p50
 西暦1800年の前後10年、英国王ジョージ4世の頃、イギリスのみならず、ヨーロッパ全体の<流行(おしゃれ)界の王者>として君臨したジョージ・ブランメル。彼の服飾哲学によれば、いかなる種類であれ派手な模様はいっさい寄せつけてはならぬものだった。着こなし上手は決して衣服によって目立ってはならない。そして上衣の材料は、色彩においては地味であるが、識者の目から見て立派でなければならぬ。

 p52-3
 われらの伊達者・ブランメルは、大向こうをうならせる代わりに、控えめの中に本物の粋を見分けられる見巧者な演劇通だけに語りかける、という心憎い手段をとったのだった。ブランメルはしきたりを尊重した、ただしそれを逆説的な誇張を持って尊重した。自分のスノビズムを隠すどころか、それを彼は体系化したのである。
 一般に軽佻浮薄とされるいっさいのもの、衣服、立居振舞、社交、それらを彼は堂々と、最重要なものとみなすふりを装い、さらにそれらを知性や、精神や、才能といったものよりも、はるかに上位に置くふりを装ったのだ。着飾り、着こなし、もてはやされる幾人かの人物とだけ挨拶し、その他の者を無視し、瀟洒な場所と、上流人士との交際のなかでだけ見かけられること、要するに<見せる>こと、それがスノッブの唯一の関心事である。だがだれもあえてそれを告白しない。
 ブランメルはそれが一生を捧げるに値する技術であることを宣言したのだ。彼とともに、スノビズムは恥ずべきものであることをやめた。それでもって彼は自分を飾り、誇示したのだ。彼がスノッブでなくなったのは、彼がスノビズムを体系化したからである。もはや彼は模倣せず、逆に刷新したのだ。流行に従うどころか、それを支配したのである。この、自覚的な、恣意的に誇張されたスノビズム、これこそダンディズムである。

p123
 伊達男だったボードレールが苦々しく述懐するように、女性はダンディの対極である。嫌悪をもよおさせる「自然」そのものである。女は腹がすけば、食いたがる。喉が渇けば、飲みたがる。さかりがつけば、されたがる。なんという自然の素晴らしい長所!要するに女はつねに野蛮である。すなわちダンディの対極だ。

p183
 第一次大戦後、ダンディズムはとみに人気を失墜し、個人主義に対立する集団の思想の決定的勝利が打ち出される。ダンディたちを取り巻いていた栄光はすでに過去のものとなり、ダンディズムは衰退の一途をたどる。1921年には文壇最後のダンディ、ロベール・ド・モンテスキューが世間から完全に忘れられた形で、世を去る。この前時代的人物は、プルースト失われた時を求めて』の中で、シャルリュス男爵なる異名のもとに、かろうじて後世の記憶にとどまる。


 先日偶然に見たアラン・ドロンの古い映画『スワンの恋』の中で、アラン・ドロン自身がこのシャルリュス男爵を演じていた。プルーストの原作ではシャルリュス男爵は旧ブルボン王家とつながる大貴族ゲルマント公爵の弟であり、傲慢な言動で知られる富裕な貴族だが、その裏には女性性が隠れている同性愛者でもあって、小説全体の複雑な人間関係の中で重要な役割を振られている人物である。ホモで美男子の有名貴族をアラン・ドロンは見事に演じていた。


 祇園という人工世界の粋を尽くした遊びの環境で成長し、生れながらの容姿と知性にめぐまれた生田教授の穏やかな顔つきが思い出される。と同時にブランメルのひそみに倣って、ダンディの栄光と悲惨をみずから試そうとするすさまじい想念も見えてくる。
 こういう本は生田教授のような本物の伊達者だけに書くことが許される。「軽佻浮薄とされるもの、衣服、立居振舞、社交などを、知性や、精神や、才能といったものよりも、はるかに上位に置くふりを装う」ダンディズムを、もし、市役所勤めのような容姿の、秋物と冬物のスーツを二着ずつしか持たない生田研究者が真顔になって称賛することがあるとすれば、それはまた別の意味で悲惨である。

セリーヌ 『夜の果てへの旅』(中公文庫)

 表があるから裏があるというのがこの世界だと思うのだが、セリーヌはこの途方もなく暗い小説の中で人性と人生の裏面だけを狂ったように描く。およそ小説作品というものの中に、なんらかのポジティブなものを見出したい人は、上下2巻のこの長編を読み通すにはかなり忍耐を要するのではないだろうか。暗い話が嫌いではない私でさえ途中で何度「やれやれ・・・」と息を継いでページをめくったことか。ねじまがった性格を持たない人間は、貧乏でない人間は、この小説の中に一人も登場しない。
 下巻では、アンルイユという老母・息子・その女房の家族が隣人として主人公の「僕」(貧乏医フェルディナン)にどこまでも絡みつくが、彼らをパリ下町の虫けらとして描写するセリーヌの悪意はひどいものだ。下記はその一例。

 p37
 アンルイユの女房はいろんな質問で僕を悩まし続けるのだった、相変わらず同じ方向の質問で・・・黒ずんだ、ちっぽけな、ずるそうな顔をしていた、この嫁は。喋っているあいだ肘はほとんど体から離れなかった。まったくの無表情だった。なんとかして僕のこの往診代の元を取るようよう、僕を何かに役立てようと懸命だった・・・生活費は上がる一方だ・・・義母の年金ではもう追っつかない・・・自分たちだっていつまでも若くいられるわけじゃなし・・・もし誰かが私たちを不憫に思って老婆の始末をつけてくれるなら・・・万が一、老婆が気が狂って、私が押し込めた離れ部屋に火付けでもしたら・・・なぜ大人しく私の薦める養老院に行ってくれないのか・・・。
 p38
 そんな、僕とアンルイユ夫婦が陰謀をたくらんでいる(と老婆が考えている)部屋の中に、とつぜん当の老婆がおどり込んできた。まるで感づいていたみたいだった。僕は驚いたのなんのって! 腹のまわりにぼろぼろのスカートをかき集めていた、そして、いきなり現われ、裾をたくし上げ、老婆を養老院へ送ろうとして悪だくみをしている僕たちをがなりつけるのだった。
 「ろくでなしめ!」とりわけ僕をじかに罵るのだ。「帰れといっただろう!・・・だれが養老院なんて気違いどものとこへなんか行くものか!・・・尼のとこへだって?・・・アンルイユ、おい息子よ、わしを尼のところへ追い出して、ちゃっかりその分を貸し部屋にしようってか・お前が何をやらかそうが、平気さ、お前なんかに負けるものか、この犬め、畜生め、年寄女から盗みくさって・・・・・お前はげす野郎さ、どうせ監獄生きさ、長くはないさ!」

 
 ・・・まあこんな悪口は、訳者生田耕作氏によれば、筆で軽くはいたようにかわいいもので、セリーヌは小説の全ページのあらゆる対象に呪詛の言葉を投げつける。上巻では主人公の体験を通じて第一次大戦のおぞましさと愚劣さ、植民地に蔓延する恥知らずな搾取、フォード自動車工場の内部を借りて暴き出される資本主義の非人間性が暴露される。下巻ではその呪詛の鉾先がパリの住民に移っただけである。

 以下は生田氏の「解説」から。
 1932年、『夜の果てへの旅』は発刊とともに大反響を呼び、ゴンクール賞の有力候補にあげられた。そのとき、この小説は「まさしく社会主義が世界を変革し、新しい民衆の生活を実現せんと企てるもの」として読まれたらしい。セリーヌはよくぞそこまで誤読できると大笑いしただろう。この異端左翼の本質を見抜いていたのはトロツキーだけだったという。この『文学と革命』の理論家は、セリーヌは作家としては称賛に値するが、社会主義の闘士に変貌しうるタイプの人間ではないと見抜いたらしい。

 トロツキーいわく、「社会主義は希望を前提とする、ところがセリーヌの作品には希望がない。 『夜の果てへの旅』はペシミズムの書、人生を前にしての恐怖と、そして反逆よりも人生への嫌悪によって口述された書物である。・・・セリーヌは革命家ではない、革命家たらんとする気持ちもない。彼は社会を改造しようとは心がげない、そんなものは彼の眼にはまったくの幻想である。彼はただ自分をおびやかし迫害する一切のものにまつわる威信を剥ぎとりたいと願うだけだ。
 新しい文体を持ったセリーヌの力は、いっさいの慣例を踏みにじり、人生の衣を剥ぎとるだけでは飽き足らず、その生皮まで剥ぎとろうとする・・・・・自分自身に対しても情容赦なく、鏡に映る己れの姿に嫌悪を覚え、鏡をたたき割って己れの手を引き裂くモラリストにもたとえられようか・・・」(トロツキー『文学と革命』)

 訳者の生田耕作教授(そのときは助教授だったか?)の授業に、大学のとき1年間だけ出たことがある。私はいなか者だったし、セリーヌとは対極にいたポール・ヴァレリーなどにいかれていたので、授業のテーマさえ覚えていない。ただ生田教授がとてもハンサムで、中高の顔が小さく、背が高く、そのうえ足が長くて「なんとカッコいい人だ」と思ったことが強い印象として残っている。もちろん教授が京都祇園生まれの高等遊び人で、江戸期の漢詩にも詳しいなどということはまったく知らなかった。私らが学生の頃、あの『ダンディズム・栄光と悲惨』の原稿を書いているとは、一部の親しい学生しか知らなかった。出席日数が足りれば無条件に単位をもらえる先生だった。

國分功一郎 『民主主義を直感するために』(晶文社)

 p239・256

 沖縄・辺野古周辺で行われているカヌーや漁船の抗議行動に対して、海上保安庁は激しい排除行為をしている。海上保安庁はゴムボートでカヌーに体当たりして転覆させるとかするのだが、そのゴムボートは、「ゴム」とは名ばかりでトラックのタイヤのような硬さである。価格1,000万円ほどの準軍事使用で、400馬力のエンジンを積んでいる。普通の漁船は100馬力というから、その4倍の力でカヌーに体当たりしてくるわけだ。
 ・・・しかも、海上保安庁の排除行動は、当初から堂々と、地元民立ち入り制限区域の「外側」で行われている。去年、2015年2月には、カヌーに乗って抗議していた8人を拘束した後、沖合3キロの外洋まで連れて行き、その場にカヌーとともに放置するという信じられないような事件も起きている。
 ・・・ここ辺野古には日本の民主主義の先端部分がある。かつてM・ウェーバーは国家を暴力の独占装置として定義したが、辺野古にはそのような国家の姿がむき出しの形で現われているのではないか。国政選挙、知事・県議会選挙、地元自治体選挙で何度も民意を表明しても、国家は平然とそれを無視する。そしてその無視に抗議する住民たちを、暴力で抑えつけようとする。デモ規制に派遣された大阪府警の機動隊員は住民を土人と呼んで自分たちの暴力性を認め、自分たちのオツムの程度を暴露した。
 国家は暴力の独占装置であるが、普段はその姿を現わしはしない。暴力は常に潜在的な脅威にとどまる。実際に暴力が現われるのは極限状態においてである。暴力が実際に行使されているとすれば、それはその現場が極限状態にあるからだ。その意味で辺野古は極限状態にあり、ここは日本民主主義の先端部分なのだ。
 辺野古にあって、基地建設反対運動は漁民・農民・運動家たちの烏合の集団ではない。沖縄全島にスーパーマーケットを展開する会社は経常利益の1%を反対運動に提供し、社員を「職務研修」として運動の現場に出している。大手ホテルのCEOは「島ぐるみ会議」の共同代表であり、有名な長文の意見広告を書いたのは大手ハム会社の社長である。
 基本的知性不足の安倍首相は、日本は大都市以外どこに行っても住民は家畜のようにおとなしいものであるとタカをくくっている。平成天皇の最初の沖縄訪問のときの火炎びん事件が、昭和天皇が沖縄を捨て石にしたことをすべての沖縄の人が忘れているわけではないことを証明したにもかかわらず。

佐伯啓思 『さらば、資本主義』(新潮新書)2/2

 第八章 アメリカ経済学の傲慢 p157-65

 経済学の本格的な研究書でありながら大ベストセラーになった『21世紀の資本』。著者のフランス人経済学者トマ・ピケティは、自国で博士課程を終えた22歳のときアメリカのMITに職を得ます。経済学者としてはめったに得られないキャリアでしょう。しかしすぐに彼はアメリカの経済学研究に嫌気がさしてフランスに戻ってしまう。その理由をピケティは次のように回想しています。
 「自分がMITでやったのは、現実の経済とはまったく無縁な数学的な分析だけだった。ところが、まさにそのことがアメリカでは称賛されたのだ。アメリカの経済学業界は、どんな事実を説明すべきかさえ知らないくせに、純粋な数学理論にすぎないものだけを次々に吐き出し続けていた。
  「率直に言わせてもらうと、経済学という分野は、数学的な純粋理論に対するガキっぽい情熱を克服できていない。そうした純粋理論がしばしばイデオロギー偏向をともなってうことに気づこうとしない。だから、経済現象の歴史研究や他の社会科学との共同研究が犠牲になっていることも知らない。アメリカでは(人間の英知をすべてデジタルアーカイブにしてみせると豪語したグーグルの能天気開発者を彷彿させる)経済学者たちは、自分たちの内輪でしか興味を持たれないような、どうでもいい数学問題ばかりに没頭している。この数学への偏執狂ぶりは、経済学を科学っぽく見せるにはお手軽な方法なのだ。」
 
 たしかに数学は中立的で論理的です。頭が左にねじれた人も右にねじれた人も、数学的論証は受け入れるほかありません。「市場競争経済はうまくいく」ことを数学的に論証すれば、これは誰もが受け入れるほかない。
 しかしながら、一般的に言えば、「市場経済はうまくいく」と言うほうが数学化しやすいことを多くの人は知りません。どうしてかと言うと、うまくいくというのは均衡するということで、うまくいかないというのは不均衡だということです。そして数学のロジックはどうしても均衡のほうを扱いやすい。不均衡という状態はカオスに近いですから、そのとき何が起きるかをロジカルに記述するのはとても難しくなります。
 しかももっと重大なことがあります。この数理経済学では、ほんの少し仮定を変えるだけで、つまり実体経済学的にはどうでもいいような仮定をどう置くかで、結果が大きく左右されるのです。それどころか実体経済学的には意味のないような仮定を置かなければ数学モデルにはならない、といったことも起きる。  私(佐伯)はもともと博士課程の経済学を学んだのですが、こんなことばっかりやっているとだんだん人間がみみっちくなると思ったものです。細かいことばかり気にして、論理の奴隷になっていく感覚に襲われました。そのとき考えていたのは、経済学はどんどん閉じていっている、ということです。
 数学という手法を使うと扱える対象が限られてきます。たとえば、企業はモノを生産する場だけではなく、信頼にもとづく人間関係の場であり、そこでは管理者のエートスが働き、従業員のやる気が作用し、企業の社会的イメージが結構大事なものであり続けます。しかしそんなことは数学的に表現されません。信頼関係や社会的イメージなどは数学理論にならない。そうしたものは数理分析からは排除されていきます。
 さらに、われわれがモノを買うときにもいろいろなことが起きます。純粋に欲しいという気持ち、見栄を張りたい、ほしくないが誰でも持っているから、CMに乗せられて、あるいは買い物中毒――――、消費行動においてこれらの区別は大事なことです。しかしこれらのどれも数学モデルにはなりません。すべて、消費者は合理的に満足を最大化している、という一語で片づけられます。
 アメリカの「市場主義はうまくいく」経済学は、こういう、ひとびとの消費動機さえ数理解析の変数にできない。これがいまやグローバルスタンダードになっていることを考えれば、日本の三本の矢がすべて的を外れても驚く人は少ない。なにしろ首相と日銀の「市場主義はうまくいく」経済学の根元には、どんな時代にも経済成長は可能だという、戦後すぐの、生活に必要なものが全く不足していた時代に生まれた、信仰と妄想があるのですから。

佐伯啓思 『さらば、資本主義』(新潮新書)1/2

 第二章 朝日新聞のなかの「戦後日本」p35-49

 2014年6月末、安倍政権が集団的自衛権についての従来の政府見解見直しを決めたころのことです。朝日新聞の東京・大阪本社版に、「制服向上委員会」なる「肩書き」をもった15歳女子高校生のインタビュー記事がのりました。見出しが「男子に血を流させるな」という、当時話題になった記事です。内容は「AKBの話に熱中したり、お弁当のおかずがいつもより一品少なくて落ち込んだりする、そんな愛すべき男子を戦場に送りこんで、血を流すこととはやめてもらいたい」という趣旨でした。
 朝日にもこんなユーモアがあったのか、と私はつい吹き出してしまいました。朝日の記者は、大人が言うとさすがにちょっと気恥ずかしいことを女子高校生に代弁させておいて、ほらこの子たちも考えているじゃないの、この子たちの言うことも聞きましょうよ、と言いたいわけです。
 もちろん朝日の編集局は本心から、国家の集団的自衛権について、戦後民主主義制度の成り立ちと現下の国際情勢のことを考えずに、「かわいい男子高校生たちを戦場で死なせたくないから反対だ」と言っているわけではありません。本当にそんなことを思っているのなら、新聞として論外ですし、「日本一のクオリティペーパー」を自任する新聞として、彼らがいつも気にしている「世界のクオリティペーパー」から笑われてしまいます。
 要するに、ややこしい話を詰めたってどうせ読者はわからないだろう、と「クオリティペーパー」の編集局は考えている。でもオバサンや一般有権者の素朴情緒的反対論もフォローしておかなければならない、そこで「男子高校生を死なせるな」になってしまう。新聞社としての「クオリティ」を落とさずに素朴情緒的反対論をフォローするには、ナイーブな(はずの)女子高校生にしゃべってもらえば大丈夫だろう、と考える。この女子高校生はいわばダシに使われたわけで、「ややこしい話を詰めたってどうせわからない」読者はなめられたわけです。朝日独特のあざとさです。


 しかし、それにしても、「制服向上委員会」女子生徒の「男子生徒を殺すな」発言はなぜあれほどまでにオバサンや一般有権者の話題を呼んだのか。その理由は「何も知らない女子生徒」や「かわいい男子生徒」が「純粋無垢な人」だからです。強引に安保法制を強化していく安倍政権に対して、彼女らと彼らは、「無抵抗な絶対的弱者」だと朝日新聞は考えている。何よりも守らなければならない戦後民主主義制度において、その根幹である平和主義に関して、「純粋無垢な絶対的弱者」の生きる権利が危機に瀕していると考えている。
 そして昭和初期の日本においても「無抵抗な絶対的弱者」は、天皇を担いだ軍国主義勢力によって戦争に引きずり込まれたのだ、 基本的に権力者は危険極まりないもので、国民は常に被害者になる可能性が大きい、 それに抵抗するものこそ民主主義者である――――かくて朝日新聞をはじめとする「進歩派知識人」の民主主義理解は「民主主義は国家への抵抗なり」という珍妙な理解によって統一されています。ギリシア、ローマの市民政治の反面がポピュリズムの愚劣であったことは、こうした論調の中ではまったく顧慮されません。まして自分の新聞社が戦時協力新聞の先頭にいたことはオバサンには一切伏せられています。
 2014年、朝日新聞社の名前を改めて世界に知らしめた国辱的なあの従軍慰安婦記事は、こうしたあざとさと欺瞞的な体質から自然に生まれたものではないでしょうか。

加藤周一 『日本人の死生観』(岩波新書)2/2

 三島由紀夫――仮面の戦後派

 下巻 p176-8

 私(加藤)は太平洋戦争直後、戦後世代の作家たちが同席している場所で、何回か三島にあったことがある。当時の印象では、三島は非常に小さく、やせぎすで、眼が大きく、態度は神経質でぎこちないところがある一方、他の人たちには興味のない彼自身の問題に頑固に執着しているようにみえた。
 三島は独特で、非凡な才能に恵まれていたが、論議の対象とならざるをえない人物だった。自己観察にかけてはすぐれていたが、他者の人格を理解する能力は限られ、美に対する感受性はゆたかだったが深い文化的教養はなく、怜悧な作家ではあったが抽象的なレベルにおける知的訓練に欠けていた。彼はつねに、内部の官能的・情動的自我から外部の歴史と社会へと向かうのに困難を感じていたと、私には思える。
 小説と戯曲において三島が作り出した人物たちは、その最良の時期でさえ、単に作者を代弁しているに過ぎないフシがあった。この傾向は『鏡子の家』で最高潮に達して、その後は、彼の想像力は明らかに下り坂に向かった。三島はしばしば唯美主義者をもって任じていたが、西洋美術にも日本美術にも通じておらず、それはたとえば、陶磁の世界を愛し、深く知っていた川端康成とは鋭い対照をなしている。
 三島の趣味はときに卑俗に堕し、その大仰な文体のおかげで絵葉書のような印象を与える。京都における建築美の象徴として金閣寺をあげるのは、パリの建築の象徴として凱旋門を持ち出すのと同様、独自性に乏しいだろう。この小説において、主人公の内部における官能的な起伏はよく人を納得させる。だが、外部における金閣の美の描写は通俗的である。
 ・・・一部の観察者が示唆するように、三島の政治思想も、彼の仮面だったのかもしれない。しかしだれでも、自分に合った仮面を選ぶのである。三島はみずからの死にあたって、エロティックな恍惚感を味わったかもしれない。しかしいずれにせよ、彼の政治思想には死という出口しかなかった。三島の場合とくに、死は帰結――衰えつつあった想像力の、実現不可能な政治参加の、涸れつきたショーマンシップの、帰結であったと私には感じられる。大向こうをねらった自殺は、おそらく彼自身にとっては恍惚感をもたらしたのだろうが、観るものにとってはそれは遠い過去からの奇異な叫び声であった。乃木希典の死後に書かれた神話の歴史が、三島の切腹の後に再び繰り返されることはないだろう。日本は、戦時中の心性の悲しい記憶をこれかぎりで葬り去るだろう、と私は思う。