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孫崎 享 『戦後史の正体』(創元社)2/2

 p168-9

 アメリカは北方領土を解決不能なように放置した

 鳩山政権はソ連との国交回復に邁進しました。ここで一番重要になってくる問題が、皆さんよくご存じの北方領土問題です。そこには現在でも一般の日本人がほとんど知らない事実があります。

 読者の皆さんは「アメリカは沖縄を返してくれたのに、ロシアは北方領土を返してくれない。やっぱり嫌な国だ」と思っているかもしれません」。ここで驚くようなことをお教えします。

 実は北方領土の北側の2島、国後島択捉島は、大戦末期にアメリカがソ連に対し、対日戦争に参加させる代償として与えた領土なのです。しかもそのアメリカが、米ソ冷戦が勃発したので、今度はその米ソ間の約束を破り、北方領土問題は日米ソのどこも解決不能な問題として放置したのです。日ソ間に紛争のタネを残し、友好関係を作らせないためにです。

 こうした解釈を聞いて、みなさんは「信じられない」と思われるでしょうか。しかしこれは国際政治の世界では常識なのです。イギリスなどは植民地から撤退するとき、あとに紛争の火種をわざと残しておきます。かつての植民地が団結して反英勢力になると困るからです。インドから撤退のときのインドとパキスタンの紛争、アラブ首長国連邦から撤退のときの首長国うしのあいだの複雑な国境線策定・・・、これらは帝国主義国家イギリスの伝統的な手法の一つだと言えます。

 p207~9

 60年安保のときの新聞社の動き

 60年安保運動に対する新聞の論調は、「安保反対」と「岸内閣打倒」の二つに分類できます。一般的に言って、安保騒動は新聞報道によってあおられ、過激化したというイメージがあります。ところが議事堂前デモなどで運動が激しくなると、新聞の論調は岸政権打倒のほうに傾いていきます。

 例えば朝日新聞は、5月21日に社説で「岸退陣と総選挙を要求す」と書いたあと、22日は「デモの行き過ぎを警戒せよ」、26日は「節度のある大衆行動を」、28日「ふたたびデモに節度を求む」と、デモに対しては基本的に批判的立場をとっています。
 そして6月15日に死者が出た翌々日、17日に日本のメディア史上きわめて異例な「全国7社共同宣言」が出ます。「暴力を排し議会主義を守れ」という表題のもと、新聞7社がいっせいに「民主主義は、その理由のいかんを問わず暴力を用いて事を運ぼうとしてはならない」と論じました。当時、安保騒動に関与した人は、この6月17日の7社共同宣言で流れはすっかり変わってしまったと話しています。

 ではこの共同宣言は本当に「共同」で書いたものでしょうか。中心人物がいます。政界のフィクサーとしても有名だった朝日新聞の論説主幹・笠(りゅう)信太郎です。 

 笠信太郎は朝日のヨーロッパ特派員としてドイツに赴任し、1943年スイスへ移動。その地でアメリカの情報機関OSSの欧州総局長だったアレン・ダレス(安保紛争時のCIA長官。ダレス国務長官の弟)と協力して対米終戦工作に従事した人です。占領下の1948年に帰国して、5月に論説委員となり、同年12月に大朝日新聞のエースである東京本社論説主幹になりました。以後1962年まで論説主幹を務めています。スイス時代のアレン・ダレスをはじめとするアメリカの国務省、CIA人脈がなければ、このポストに14年間はとどまれません。

 安保騒動初期、朝日新聞は安保条約を批判し、世論を安保反対に導くのに大きな役割を果たしました。しかし最後は反対運動の幕引き役をつとめたのです。朝日と毎日は、戦後、リベラル勢力の中心的な存在でした。それが1960年6月17日、笠信太郎たちが書いた7社共同宣言で、自分たちが変節したことを日本全国に表明したのです。

孫崎 享 『戦後史の正体』(創元社)1/2

 著者は外務省でイラン大使、国際情報局長などを経た後、2009年まで防衛大学校教授を務めた人。外務省時代、一貫して対米自主路線を鮮明に打ちだし、圧倒的多数派を占める対米追随派に囲まれて冷飯を食わされるときも長かったようだ。

 戦後史の正体というタイトルはどこかしら「暴露本」という印象を与えるが――そのせいもあって私自身買ってしばらくは本棚に置いたままにしていたのだが――読んでみると、たしかに読者をびっくりさせる「暴露」はしているものの、それは、全国紙、高級官僚、主要閣僚、総理大臣たちの対米追随ぶりがいかにひどいかを、そして彼らを走狗にさせた大戦後の米軍司令部、その上の国務省国防総省、CIAの日本支配戦略がいかに巧妙であったかを、一級史料を示しながら読者に分かりやすく説明するためだった。この本は決してキワモノの暴露本ではない。

 戦後の総理大臣や外務大臣には、積極的に対米自主外交を行おうとしてアメリカに働きかけた人も意外と多くいる。そして本書を読み進めていくと、それらの大半がホワイトハウスペンタゴン、CIAなどにいつの間にか手足を縛られ、辞職を余儀なくされ、あるいは田中角栄のように検察特捜部の手で政治生命を絶たれたことがわかってくる。

 p11 

 日本人だけが国際政治に陰謀を見ようとしない

 国際政治の現場にいないと、「それは陰謀論だろう」などと容易に言ってしまうことになります。しかし、少しでも歴史の勉強をすると、国際政治のかなりの部分が謀略によって動いていることが分かります。日本も戦前、中国大陸では数々の謀略をしかけていますし、アメリカもベトナム戦争トンキン湾事件という謀略をしかけ、北爆の口実としたことが明らかになっています。

 もっとひどい例としては、ケネディの時代、アメリカの軍部が自国の艦船を撃沈させ、それを理由にキューバ侵攻を企てていたことがわかっています。ケネディがこの計画を却下したので実行はされませんでしたが、当時の参謀本部議長のサイン入り文書をワシントン大学公文書館で見ることができます。学者や評論家がそうした事実を知らないまま国際政治を語っているのは、世界で日本だけでしょう。

 

 敗戦の3日目に米軍用の慰安施設を作った内務省 

 半藤一利さんの『昭和史』には驚くべきことが書いてあります。
 「8月18日に進駐軍にサービスするための「特殊慰安施設」が作られ、すぐ慰安婦募集がされました。いいですか、敗戦の3日目ですよ」
 「内務省の橋本警備局長が各府県の知事に、占領軍のためのサービスガールを集めたいと指示を出しました」
 「当時大蔵官僚でのち首相となる池田隼人が幾らくらいかかるのかと聞くと、特殊慰安施設協会副理事長の野本さんが1億くらいですと答えました。池田さんは1億円で純潔が守られるのなら安いと言いました」、というような内容です。

 内務省の警備局長といえば、治安分野の最高責任者です。その人が売春の先頭に立っている。歴史上、占領軍のための慰安婦敗戦国の街に立つことはよくあります。しかし警備局長や後の首相が率先して占領軍のために慰安施設をつくるという国があったでしょうか。

 当時、対米自主外交派の外務大臣だった重光葵(まもる)は有名な日記に書いています。「節操もなく、自主性もない日本民族は、過去においても中国文明や欧米文化の洗礼を受け、漂流していた。そうして今日においては、マッカーサーをまるで神様のように扱っている。その態度は、自分に責任はないことをしきりに訴えようとする陛下から庶民まで、みな同じだ」

 p82・86・88

 日米関係の節目節目で「大きな仕事」をした東京地検特捜部

 検察庁の特捜部は歴史的にアメリカと深い関係を持っています。まず1948年、東京地検特捜部は、占領下で、GHQのために働く捜査機関として発足します。戦争中、旧日本軍が貯蔵していた莫大な資財が行方不明になっていました。1945年10月にはGHQ自身が、東京の三井信託地下倉庫からダイヤモンドをなんと16万カラットも接収しています。
 そうした不当に隠された物資を探し出して、GHQの管理下におくことを目的に設置された「隠匿退蔵物資事件捜査部」が東京地検特捜部の前身です。

 過去の東京地検特捜部長のなかで、もっとも興味深いのは布施健でしょう。布施は戦前はゾルゲ事件の担当検事として有名でした。ゾルゲ事件は戦争直前に対米開戦回避を模索していた近衛内閣を崩壊させる一因となったスパイ事件です。その裏にはアメリカの交錯があったと考えられています。何しろアメリカ政府はヨーロッパ戦線に参加したくてたまらなかったのに、国民の間では非戦気分が強く、ホワイトハウスと軍トップは日本に真珠湾を襲わせ、大西洋と太平洋で一気に戦争に参加しようとする謀略の真っ最中だったのですから。 

 また彼は一部の歴史家が米軍の関与を示唆している下山事件国鉄総裁轢死事件)の主任検事でした。田中角栄が逮捕されたロッキード事件のときは検事総長でした。ゾルゲ、下山、ロッキード、いずれも闇の世界での米国の関与がささやかれているすべての事件に布施健はかかわっています。

 2009年3月、東京地検特捜部は元民主党代表で首相の座に近づいていた小沢一郎を、陸山会事件西松建設事件で逮捕しました。小沢一郎は「日本と中国はもっと緊密になるべき。在日米軍第7艦隊だけでいい」と発言しています。そのときの特捜部長・佐久間達哉氏は、直前まで在米日本大使館に一等書記官として勤務してた人物です。この小沢事件のもっとも重要なポイントは、特捜部と大手メディアがいっせいに始めた攻撃がなければ、同じ年の9月、小沢一郎氏はほぼ確実に日本の首相になっていたということです。

 いまでも日本のヒラの国民の大半は、小沢一郎は策謀家でカネに汚なく、陸山会事件西松建設事件は身から出たサビだと思っています。しかし当時、日本国民が正当な手続きによって選出した指導者を、米国務省日本大使館東京地検から流れた情報を元に大手メディアが排斥しようとしたなら、これは民主主義国家の根幹を揺るがす大問題です。

大岡昇平 『俘虜記』(新潮文庫)1/2

 軍需工場サラリーマンにしてスタンダール研究者だった大岡昇平一等兵は昭和20年1月、36歳のときにフィリピン・ミンドロ島で米軍捕虜になった。ミンドロ島は日本軍による捕虜虐待事件「バターン死の行進」で有名なルソン島バターン地方にある。
 極度の疲労状態で捕まった直後、大岡は野戦病院に収容され、手厚い看護と栄養充分な食事におどろいた。バターンでの捕虜虐待のことは当然よく知っていたから、ジュネーブ条約にかかわる捕虜の扱い方の彼我の差を知らされ、ひよわな日本が圧倒的な米国に戦いを挑んだことのばかばかしさを、あらためて思い知らされた。

 野戦病院でそれまでの疲労と飢餓状態から回復すると、大岡はレイテ島にあるタクロバンやパロの収容所に移送される。『俘虜記』は20年12月まで過ごしたこれら収容所での生活記録だが、基本的に大岡は、野戦病院に収容された直後から日本への帰還船に乗るまで全期間を通して、「先進文明国の捕虜」になった自分の幸運を体深くかみしめている。読む人は、後年文学者としても個人生活でも幅広い分野に関心を示し続け、棘のある言動も多かった大岡が、アメリカが守るべき戦争の規律はきちんと守った西欧文明国でもあったことを認めた点に感銘を受ける。

 A<アメリカが原爆を日本に落としたこと>と、B<アメリカが戦争捕虜を虐待しなかったこと>は、本来全く別次元のことがらである。AとBは順接の関係にも逆接の関係にもない。近代文明の下では、大きく国家においても小さく個人においても、AとBはいつでも両立しうる。ただし、当時のソ連やドイツや日本ではAとBが両立する可能性は小さい。
 個人と国家は分離されておらず、国家は個人の運命共同体であり、敵の国家への敵対心は個人的な恨みつらみと同種のものだからだ。だから降伏した敵国の捕虜に対しても、その恨みつらみを晴らすため、戦闘中と同じように接する。ドイツはいざ知らず、わが日本では個人と国家はいまだに分離されていないことは、現首相や一部閣僚の学校教育にかんする発言を見れば瞭然としている。

ジョン・ダワー 『アメリカ 暴力の世紀』(岩波書店)2/2

 p116-7

 独善的な人間は相手の心理を正確におし測ることができない。それは個人でも軍隊の官僚組織でも同じである。1961年から68年まで国防長官を務めたロバート・マクマナラは、そのあと何十年もたって、2003年、ベトナム戦争敗北の原因について初めて簡潔な説明をした。

 「敵の立場に身を置き、彼らの目でわれわれ自身を見つめ、彼らの決定と行動の背景にある考え方を理解しなければ、われわれの作戦は成功しない。自分と同僚たちは当時、東西冷戦という視点からしベトナム戦争を捉えることができなかった。ベトナムが長い間植民地主義と戦ってきたこと、そして第2次大戦時代から内戦が自国を二分してきたことを無視してきた」とマクナマラは告白した。すなわち、敵の歴史や国民的性格に対する深刻な無知がアメリカの敗北の基本にあった、ということを認めたわけである。

 しかしこのマクナマラの自戒の発言があったまさにそのとき、ジョージ・ブッシュ政権の国防長官・ラムズフェルドと同僚たちは、ベトナムのジャングルとは気候だけが違う「砂漠の泥沼」に陥る危険性をまったく無視して、イラク侵略を開始しようとしていたのだった。
 彼らの頭の中では、敵が「巨悪としての共産主義」から「テロリスト」に変わっただけだったのである。そのような大規模な軍事介入が裏目に出て、テロリズムを衰退させるどころか増強させてしまうことを、アメリカの最高責任者たちは想像すらできなかった。
 敵を侮る自信過剰と独善の前にはベトナムの苦い経験はなんら活かされず、アメリカは草の根レベルでの強い抵抗があるなどとは予測もしていなかったし、ましてや部族レベルでの反乱が起きるなどとは考えてもいなかった。軍事面での強大な「技術的非対称性」の前には、つまり“圧倒的にわれわれは強いのだから”、てこずる敵など存在しないと考えるのが、アメリカという国の、第二次大戦勝利以来いつも変わらない「常識」なのだった。

ジョン・ダワー 『アメリカ 暴力の世紀』(岩波書店)1/2

 THE VIOLENT AMERICAN CENTURY というのがこの本の原題である。直訳すれば『暴力的なアメリカの世紀』。日本の読者がこの邦題を目にするとき、これではあまりにアメリカに対して侮蔑的に映ることを慮って『アメリカ 暴力の世紀』としたと、訳者が冒頭に付言している。

 政治・軍事・経済・文化のすべての面にわたって支配力を持つアメリカは傲岸不遜で独善的な国である。が、その独善性の裏面には、どのようにしてこの国民性が育まれたのか分からないが、滑稽なほどの被害妄想が見え隠れしている。だから、どんな些細な反アメリカの動きに対しても、アメリカはその国民心理のままに、興奮した子供のように稚拙で危険な行動をとろうとする。民主党員であろうと共和党員であろうと、この独善と被害妄想はあまり変わらない。

 ジョン・ウェインの西部暴力劇は、自分たちは掠奪者であるのにインディアンに迫害されているような異常心理の世界であったし、コンピュータ精密誘導爆弾を使いまくった湾岸3日戦争も、同じ暴力心理の上層軍部が演出した過剰な復讐劇だった。

 序文p15

 アメリカ合衆国は、その圧倒的な軍事力にもかかわらず、冷戦期の朝鮮戦争ベトナム戦争では停戦と敗北を経験した。そして冷戦終焉の1991年からわずか10年後の2001年9月11日、アルカイダによる世界貿易センター国防総省ビルへの攻撃が実行された。これにたいする応酬としてアメリカ政府が開始した「テロとの世界戦争」は、拡大中東圏に終わりの見えない不安定と混乱を引き起こしたことで、アメリカの軍事的失敗を再び証明してしまった。

 アメリカ政府にとって無念であったと同時に失望的であったのは、国防総省の歴史上先例のない軍事技術的優位性が、ほとんど無秩序ともいえる非国家集団の不規則な戦闘員たちと戦う「テロとの新しい戦争」に挫折させられたことである。

 p94-6

 地中海でも太平洋でもそうだが、中東でも巨大な米艦隊は、単に浮かぶ基地ではいられない。艦隊を維持するには大規模な陸上施設が必要であり、1990年代以降、中東ではアメリカの陸上施設が大幅に増強された。もちろん中東の石油をにらんでのことである。熱心なイスラム教徒がいかにアメリカの国際政治暴力を憎悪していたか、9.11事件を見ればよくわかる。
 たとえば1990年8月に始まった湾岸危機・戦争では、アメリカ軍と多国籍軍サウジアラビアの15の基地を集結場所とし、ここから航空機を発着させている。さらに1992年から2003年のあいだ、アメリカが南イラク上空を飛行禁止区域に設定するに際し、アメリカ主導の多国籍軍の監視飛行発着地として、サウジアラビア王国は重要な役割を果たした。
 サウジアラビアに海外の軍隊が駐屯するということは、多くのイスラム教徒に対しては聖地メッカとメディナを冒涜することであり、アメリカに対するサウジアラビアの隷属を象徴するものとして、とりわけ侮辱的なことであった。
 9.11攻撃の首謀者であったオサマ・ビン・ラディンは、早くも1996年時点から、アメリカの軍靴が彼の生地の神聖さを汚していると、公然とかつ激しく非難していた。

 歌にはなりにくい「政治」をときどき真正面から取り上げる歌人・馬場あき子は、9.11事件の後、もともとの「正義」はこのビン・ラディンにありとして、腰の据わらない日本中のメディア知識人たちをうろたえさせた。その馬場さんも、今年90歳になった。
 ・丈三尺伸びし黄菊や管(くだ)菊やビン・ラディン生きて逃がれよと思ふ 
 ・ならずものの大国の辺に寄りそへる三等国日本のつくつくほふし 

多田富雄 『免疫の意味論』(青土社)2/2

 p209-10

 がん細胞は免疫系から逃走する

 がん細胞に対してT細胞による免疫反応開始の引き金を引くのは決して容易ではない。がんはもともと自己から発生したものである。だからがんに対する免疫反応は、それが簡単には起こることがないように、前提条件が二重に三重にセットされているのだ。その条件をクリアしなければ免疫反応は起こらないのである。

 「非自己」が侵入すれば、免疫系はいつでもアプリオリに反応するなどというのは幻想であったことが分かる。もともと自然は、「自己破壊」を起こさないように二重三重に制約を加えているのである。

 そのすきをついて、がんは免疫からかぎりなく逃走する。まずがん細胞では、がん抗原を認識させるに必要なHLA(組織適合遺伝子複合体)分子が消えてしまっている例がある。HLAがない細胞は、どんなに異物であっても、キラーT細胞から攻撃されない。キラーT細胞は「自己」のHLA分子に入り込んだペプチドだけを異物として認め、それを目印に攻撃するからである。

 この逃走の仕方は、実は、胎児が母親の免疫を回避しているのと同じやり方である。父親から半分の染色体をもらっている胎児は、母親にとっては半分異物である。つまり胎児は巨大な移植片なのだ。ところが10か月もの間、胎児は拒絶されずに子宮内にとどまる。その理由の一つが、母親と接している胎盤の一部でHLA分子が消えてしまうことである。HLAがなければT細胞は胎盤を異物と認識できない。

 がんには、特有ながんの目印があって、がん抗原と呼ばれている。ところがこの抗原のいくつかは、人間が胎児の頃に普通につくっていた分子であることが分かってきている。胸腺が発生し、免疫系が発達しつつある胎児期に、「自己」の内部に同居していたのだから、T細胞はそれを当然「自己」と認識するわけである。いわゆる胎児性がん抗原に対して免疫が起こらないのは、それがもともと異物ではなく「自己」だったからである。(わたしの妻の原発胃がんがこれだった。)

多田富雄 『免疫の意味論』(青土社)1/2

 p196-8 

 遺伝性風土病がサルジニア島を敵から守った

 イタリアの孤島サルジニアには、イタリア本土とはあきらかに容貌を異にした人たちが住んでいる。彼らは紀元前7世紀にフェニキア人に滅ぼされ、次いでカルタゴ、ローマ、ビザンチン、スペインなど次々に多民族の征服にゆだねられたが、サルジニア人の土着の民族性は2000年にわたって維持された。

 こうした民族の独自性を守った要因の一つに風土病がある。サルジニアにはフェニキア人が持ち込んだという悪性のマラリアがあり、カルタゴもローマもビザンチンもスペインも、武力では勝ったものの兵士はマラリアに次々と倒され、長く駐屯することはできなかった。
 ではなぜ島民の方はマラリアで全滅しなかったのだろうか。島民にだけマラリアに対する免疫ができるはずがない。島民が生き延びた理由は、実はこの土地だけの遺伝病にある。

 その遺伝病とは、酸素を運ぶ赤血球の蛋白ヘモグロビンに欠陥があり、赤血球が壊れやすくなって起こる貧血で、地中海貧血と呼ばれる。正確には、成人では発現されない胎児型のヘモグロビンを含む異常ヘモグロビンが大量に作り出され、赤血球の形も変形する。

 通常マラリアの病原体は赤血球に寄生するが、この地中海貧血の人の赤血球には侵入することができない。そのためこの貧血の患者はマラリアに強く抵抗することができる。いきおいマラリアは正常な赤血球を持っている外国兵士だけに選択的に感染し、それを倒していった。地中海貧血の患者は貧血という代償を払って、致命的な熱帯熱マラリアから救われたのだ。

 その結果、サルジニアでは地中海貧血の遺伝子を持っている人口が増加してしまった。2000年余りにわたっての自然選択の結果、地中海貧血は地方によっては20%近くの人が強い貧血に陥る。潜在的にこの遺伝子を持っている人々は、ところによっては70%に達する。遺伝子を作り直すことはできないから、この貧血には治療法がない。

 この事実は、一見悪いように見える遺伝子が、特定の環境の中では有利にはたらくことを示している。人間の中途半端な知恵で、悪いと思われる遺伝子を排除するなどということが、いかに危険であるかを示す好例である。