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養老孟司 『遺言』(新潮新書)1/2

 意味のないものにはどういう意味があるか

 p36-7

 雑草とは何か。そんなものは植えた覚えがない草のことを、雑草という。植えなかった理由は、その人にとって意味がないからである。サラダにするわけでもないし、野菜炒めにするわけでもない。それなら引っこ抜いてしまえ、というわけだ。

 意味のあるものだけに取り囲まれていると、いつの間にか、意味のないものの存在が許せなくなってくる。その極端な例が2016年相模原市の障害者施設で起きた19人殺害事件だろう。障害があって動けない人たちの生存にどういう意味があるか、そう犯人は問うた。
 その裏には、①すべてのものには意味がなければならない、②その意味は「自分に分かるはずだ」という暗黙の、自分なりの了解がある。①まではその男の信仰として許される。しかし②は普通には「自分にはそういうものの存在意義はわかりません」でとどまるところを、自分が分からないことを「意味がない」と勝手に決めてしまう。その結論に問題がある。
 なぜそうなるかと言うと、その人たちはすべてのことに意味があるという世界をつくってしまい、その中で思春期以降を暮すようにしたからである。意味のあるものしか経験したことがない。そう言ってもいい。不健康で狭量な思想はそうした人の集団の中で育つ。喫煙が健康に意味がないということでナチ政権は国家的に禁煙運動を始めた。さらに精神障害者安楽死を積極的に進める国になった。

 山に行って虫でも見ていれば、世界は意味に満ちているなんて誤解をするわけがない。何でこんな虫がいなきゃならないんだ。世界はそこでは無意味に満ち満ちている。 
 

福岡伸一 『新版 動的平衡』(小学館新書)3/3

 がん細胞とES細胞の共通点

 p164・170

 ES細胞は万能細胞と呼ばれている。シャーレの中で培養できる。そのES細胞は置かれたまわりの細胞と「コミュニケーション」をとりながら、何にでも――肝臓にでも腎臓にでも心臓にでも――なりうる態勢で、施術者の指示を待っている。だから多能性細胞ともよばれる。
 実は、ES細胞にそっくりの特徴を持つ細胞を、もうひとつ私たちはずっと昔から知っている。がん細胞である。ガン細胞はいったんは正常組織細胞として分化を果たして、自分の使命を全うしつつある細胞である。
 ところが、偶然が重なると、分化の過程を逆戻りし、未分化段階に戻ってしまうことがある。それでいて分裂と増殖を止めることがない。このような暴走細胞が身体のさまざまな場所に散らばり、他の細胞の秩序をかく乱するのが、とりもなおさずがんの正体である。
 自分の分際を見失って、しかし無限に増殖することはやめない細胞。この点において、がん細胞はES細胞と極めて似通っており、おそらくは表裏一体の関係にある。私たちがもし、がん細胞にふたたび正気を取り戻させ、人体組織の一部に分化することを思い出させることができたら、私たちはがんを制御することができるはずである。

 しかし、長年の研究を経ても、がん細胞にまわりの細胞と「コミュニケーション」を取らせることに、誰も成功していない。それは生体組織の分化を生体の外側から十全にコントロールするという、現在をはるかに超える科学と技術を必要とするからである。おそらく今後しばらくは、私たちはがん細胞を制御するのとほとんど同じ程度にしか、ES細胞やiPS細胞を制御できないだろう。

 生体組織分化を十全にコントロールするには、その技術に時間の関数が入っていることが欠かせない。生命というプロセスがあくまで時間の関数であり、それを逆戻りさせることは不可能だ、という意味である。
 さきにも書いたが時間の関数とは、「あるタイミングにおいて、部品Aと部品Bが出現し、A・B間でエネルギーと情報がやり取りされ、あるステージが作り出される。次の瞬間には、別の一群の部品C・D・Eが必要となり、手前のステージでの部品A・Bは不必要になるばかりか、そこにあってはならなくさえなる」ということである。
 イギリスの有名なクローン羊ドリーは順調に成長し、どこから見ても正常な羊に育ったが、突然原因不明の病で死亡した。羊の平均寿命のわずか半分だった。ドリーの受精から発生、誕生までの組織分化の時間には、羊の体内時計とタイミングがとれない人間的時計が一緒に入っていたに違いない。

福岡伸一 『新版 動的平衡』(小学館新書)2/3

 生命においては、全体は部分の総和ではない

 p145-6

 生命は細かく分解していくと確かに部品になる。遺伝子上に設計図がある二万数千種類のミクロな部品に。その部品(タンパク質)は今ではどれも試験管内で合成することができる。

 でも、それを機械のように組み合わせても、そこに生命は立ち上がらない。それはどこまで行ってもミックス・ジュースでしかない。ところが私たち生命はその部品を使って現にいま生きている。ミクロな部品が組み合わさって、動き、代謝し、生殖し、思考までする。
 だから、生命現象においては、機械とは違って、全体は部分の総和以上の何ものかである。私(福岡)はもちろん生気論者ではない。危ういオカルティズムに接近するつもりはさらさらない。私は、総和以上の何ものかは「時間」に由来すると考える。

 生物を物質のレベルからだけ考えると、生命もミクロなパーツから成るプラモデルに見えてしまうかもしれない。しかし生命はプラモデルと違って、パーツとパーツのあいだでエネルギーと情報がやり取りされている。そして、そのやり取りの効果が現われるために「時間」が必要なのだ。より正確に言えばタイミングが。

 あるタイミングにおいて、この部品とあの部品が出現し、それらの部品間でエネルギーと情報がやり取りされ、あるステージが作り出される。次の瞬間には、別の一群の部品が必要となり、前のステージでの部品は不必要になるばかりか、そこにあってはならなくさえなる。このような不可逆的な時間の折りたたみの中に生命は誕生する。

 近代の生命学が陥ってしまった罠は、一つの部品に一つの機能があるという幻想だった。その部品機能主義に囚われると、たとえば青い花が咲く植物には「青の遺伝子」があるということになってしまう。そうではないのだ。青い花を咲かせるという「効果」が生み出されるためには、数十、数百、いやそれ以上の部品遺伝子がかかわり、それらの部品と部品の相互作用がタイミングよく生じる必要があるということだ。きわめて複雑な特殊機能遺伝子がたくさんあるということではなく、比較的簡単な部品遺伝子が絶妙のタイミングで連続的に発現するということなのだ。
 数多くの部品遺伝子の連続発現のタイミングを絶妙に調整しなければならないからこそ、生命の一つの種の進化には数百万年もの時間がかかるのだ。部品遺伝子という物質自体は同じものがそろっている生命種でも、それらの連続発現のタイミングに一つ狂いがあれば、その生命種は容赦なく自然淘汰されてしまう。

 

福岡伸一 『新版 動的平衡』(小学館新書)1/3

 人は、たとえば70歳になったとき、10歳のときよりは1年が短くなったと思わないだろうか。小学生のとき私は「6年間とは何て長いものか」と3、4年生のときも、小学校を卒業した後も感じたが、70歳になったいま、これからの6年くらいは数えるうちに過ぎることを体で感じることができる。
 著者は、この年齢による時間の感じ方を、それはタンパク質の新陳代謝速度に関連するものだと、とても分かりやすく教えてくれる。

 タンパク質の新陳代謝速度が体内時計の実体

 p46-7 

 私たちの体内時計の仕組みは、タンパク質の新陳代謝速度に起因する。生物の体内時計の正確な分子メカニズムはいまだ完全には解明されていない。しかし、細胞分裂のタイミングや分化プログラムなどの時間経過は、すべてタンパク質の分解と合成のサイクルによってコントロールされていることが分かっている。つまりタンパク質の新陳代謝速度が体内時計の秒針なのである。

 もう一つの厳然たる事実は、私たちの新陳代謝速度が加齢とともに確実に遅くなるということである。つまり体内時計は徐々にゆっくり回ることになる。
 しかし、私たちはずっと同じように生き続けている。そして私たちの内発的な感覚はきわめて主観的なものであるために、自己の体内時計の運針が徐々に遅くなっているのに気がつかない。
 だから完全に外界から遮断され、自己の体内時計だけで「一年」を計ったとすれば、「もうそろそろ一年が経ったなあ」と思えるに足るほど体内時計が回転するには、より長い物理的時間がかかることになる。子供時代の時計よりも老人の時計の方がゆっくりとしか回らないのだから、そういうことになる。

 さて、ここから先がさらに重要なポイントである。タンパク質の代謝回転が遅くなり、その結果、一年の感じ方は徐々に長くなっていく。にもかかわらず、実際の物理的な時間はいつも同じスピードで過ぎていく。

 だから? だからこそ、自分ではまだ一年なんて経っているとは全然思えない、自分としては半年くらいが経過したかなーと思っている。しかしそのときは、すでに実際の一年が過ぎ去ってしまっているのだ。そして私たちは愕然とすることになるのである。
 先日私は市役所からの通知で「あなたは来月から医療保険の自己負担が3割から2割になりますよ」と教えられて、そのことを実感したのだった。

 

茂木健一郎 『脳と仮想』(新潮社)2/2

 脳科学にとって、「意識」の存在は確実なことではないらしい

 p204‐6

 近代科学のもとでの世界観は、私たちの身体が存在し、脳が存在し、目の前のコップが存在し、庭の木が存在し、地球が存在し、太陽が存在し、それらが方程式で記述できる自然法則で変化していく・・・というものだった。

 しかし、と言うべきかだからと言うべきか、そのような近代科学にとって、私たちの「意識」は、確実な存在ではなかった。意識が存在し、自分が自分の意識について遡及的に考え、批判することができるということは、科学的世界観からすれば余計なこと、想定していないことだった。

 意識の中に、数式に直すことのできない、様々なクオリアが存在すること。意識の中で、この現実の世界には存在しない、たとえばユニコーンとか、かぐや姫とか、ハルマゲドンとかさまざまなものごとを仮想することができること。そして、そのような意識に表象されるすべてを把握している「私」という存在がいること・・・。
 これらの経験的事実は、「因果必然的法則からなる物質的世界」という世界観から見れば、いかにも奇妙なことであった。だから科学は、ほんのこのあいだまで、意識は存在しないことにしていた。意識の存在を認めたにしても、それはなにか生気論に近い、真に言及するに足りない、胡散臭いものとしてきた。

 心の時代であるとか、感性の時代であるとは言いながら、現代人が本音の部分で、物質的存在こそが確実であり、意識はあいまいで頼りない存在であると考えていることは、どうやら間違いがない。それは仕方がないことだ。

 そもそも人間の知性は認知的に閉じており、人間には自分の意識の問題は解けないと主張する哲学者が何人もいる。ではあっても人間にとって、自分の意識がある、ということほど確実なことはないはずである。なぜならアインシュタイン相対性理論もハイゼンベルグの量子理論も、自分のその理論を正しいと思うのはまず自分の意識であるからだ。自分の意識の検証に合格できない考えなどというものは、科学理論であれ芸術作品であれ、世間に公表するわけがない。

 物質的世界こそが確実だ、という世界観は、おそらくは公共的倒錯とでもいうべき奇妙なねじ曲がりの上に成り立っている。だから意識が存在することを、直感的には別にして、科学的世界観と整合性のある形で説明するには、おそらくとてつもない天才の出現を必要とするだろう。ニュートンアインシュタインの比ではない、すさまじい知力と胆力を持った超人の出現を必要とするだろう。

茂木健一郎 『脳と仮想』(新潮社)1/2

 科学はクオリアを、研究対象にしたくてもできなかった

 p20-5

 赤い色の感覚、水の冷たさの感じ、そこはかとない不安、たおやかな予感。私たちの心の中には、数量化することのできない、微妙で切実なクオリアが満ちている。私たちの経験がさまざまなクオリアに満ちたものとしてあるということは、この世界に関するもっとも明白な事実の一つである。

 ところが科学は、私たちの意識の中のクオリアについては、その研究の対象にしてこなかった。探求の対象にしたくてもできなかったのだ。脳という物質に、なぜこころという不可思議なものが宿るか、その原理を明らかにするには方法論的に歯が立たなかったのである。

 もちろん物質としての脳と無関係に、私たちの心があるわけではない。計量できる物質と無関係に計量できない経験があるのではない。

 私たちの脳という複雑な有機体も、また、物質である以上、そのさまざまな性質を数で表すことができる。方程式に書くこともできる。一千億のニューロンが一秒間に何回活動するかは数えられる。ニューロン中の分子の種類も、その濃度も数えられる。そのような数の間の関係式を方程式で表すこともできる。

 しかし、方程式で書けるような現在の科学の方法は、私たちの主観的体験の問題に関しては、何の本質的洞察も提供しない。研究所で脳科学シミュレーションを受けているひとがいま何を考えているのか、今日の昼食のことを考えているのか、彼女とのデートのことを考えているのか、明日の上司との打ち合わせのことなのか。そのような主観的な体験の質は、科学の方法でわかりはしない。

 裏を返せば、クオリアを初めとする、私たちの心をめぐる困難な問いに対して距離を置いたことは、科学が今日の成功を収めた大きな要因であった。しかし意識の根本原理を理解したいという立場からは、科学は人類の知的探求の不完全燃焼にすぎなかった。

 心に浮かぶ様々なものを生み出す第一原因は、現時点では未知であるが、なんらかの精密な自然の秩序であることを、現代の脳科学は示唆している。意識もまた自然現象であるはずである。しかしこの身近な主観的体験に対して解明の方法論さえ立てえないというのでは、科学が名乗る「万物の理論」は詐称に近い。

 科学者の多くは、人間の心のことを「随伴現象」と言う。随伴現象とは、今までの科学の中では、人間の心の存在意義が副次的なものであったことを象徴する概念である。
 随伴現象説では、クオリアに満ちた私たちの主観的体験は、なぜそうなるのかはわからないが、物質的過程である脳のニューロン活動に「随伴」する現象として生まれるとされる。物的現象と心的現象はおたがいに密接に関連して進行するが、平行していて影響を及ぼし合わない。特に、物質としての脳の中の分子の時間発展は、因果的には閉じていて、それに心が随伴することは、脳の因果的発展に影響を与えない。
 だから、客観的視点から物質としての脳の時間変化を数で表し、方程式を書く上では、心の存在は忘れてしまってよい。しかも物的過程と心的過程は厳密に対応しているので、物的過程だけを見ていれば、現象の記述としても必要にして十分である。つまり心なんてものはあってもなくてもよい「付け足し」になる。これが随伴現象説と呼ばれる考え方で、近年の脳科学における通説となってきた。

 だからこそ、脳科学は、クオリアに満ちた人間主観的体験などという面倒なものを気にせずに、数で表すことのできる「科学的体験」の世界で、脳の機能を解析することに専念できたのである。

 脳科学が茂木氏の言うとおりのものだとすれば、たわけた理論もあったものだ。物的過程と心的過程は厳密に対応しているというが、たとえば詩人が一つのクオリアにインスピレーションを感じて詩作に弾みがつくとき、クオリア=心的過程であり、詩作の進捗=物的過程だと、脳科学者は中学生みたいなことを言い募るのだろうか。
 またたとえば人が嘘をつくとき、彼の心的過程と物的過程はきちんと対応しているだろうか。官僚が国会で「誓って私は首相に報告していません」と嘘の答弁をするとき、官僚の心的過程は「俺は嘘をついている」であるにもかかわらず、彼の物的過程は「私は首相に報告していません」であって、物的過程と心的過程はこのときまったく対応していないのではなかろうか。
 

高橋和巳 『憂鬱なる党派』(新潮文庫)2/2

 この小説は、『憂鬱なる党派』という題名にふさわしく、読んでいて本当に憂鬱になる。西村という主人公と6、7人の友人たちが登場するが、彼らは全員が京都大学出身の学生運動家だった。そして、アメリカに逃避して心理学者になる青戸とマスメディアに就職した蒔田を除いて、全員が、別々に悲惨な末路をたどる。書かれたのは1964年だから、68~70年の内ゲバは出てこないが、登場する男たちは、教授吊し上げや学内放火、組織内のリンチ事件などで司直から逃げていたり、裁判の未決釈放中であったりする。
 そうした身の上なので、電力会社の臨時雇いになって山中の送電線の見回り仕事をしたり、町工場でプレス工になったり、保険会社の営業になって金を着服したり、小雑誌社で労働組合を組織して会社ともめたり・・・・・、世間がいう「まともな」社会生活を送ることは彼らはとうていできない。が、そんな彼らは、30歳に近くなった現在でも、果てしない議論をする。

 すでにサンフランシスコ条約によって日本の国際的立場はがっちりと固定され、国内の生産力は戦前のピークを上回っていた。「神武景気」が来て国民はひたすら自足し、大多数の国民は国家に不満を持たなくなっていた。平均的国民感情を考慮すれば、登場人物たちの議論はただの<言葉>であり、選挙民としての国民には意味の分からない駄弁にすぎなかった。その、絶対に立ちあがらない国民を、啓蒙すれば立たせることができるとした大きな勘違いこそ、ナイーブな戦後合理主義が伝統日本の非合理主義を超えられなかった理由である。

 下巻に、1961年に起きた釜ヶ崎暴動のことが書かれている。高橋和巳はもちろんこの暴動を民衆蜂起事件としてはとらえていない。この事件は貧民街の手配師やその上の暴力団によるピンハネなどが暴動発生の引き金になったもので、一部左翼が期待したような国民の抗議運動ではなく、そのような「国民」に差別の目で見られる日雇い労働者のただのガス爆発にすぎなかった。

 この小説で何十カ所も出てくる弁論の一つを下に抜き書きする。半世紀ほども昔、友人との議論に際して私たちはこんな上等な言葉は使えなかったが、私にも身に覚えのないことではない。

上巻p204

 「青戸、あわてるな」古在は、その弁論の鋭さとは似ない、胃の痛みにでも耐えるような微笑を洩らした。「青戸が心理学の道に進むことに固執するのは分からなくはない。社会は確かに、青戸のような専門家を必要とするように、現在が政治的時代であるゆえに、逆に君のような非政治的人間をも必要とする。

 「しかし、君の意識の中に、もしこの政治的現実がないとするなら、あきらかにそれは君自身の不幸だ。不感症の女、インポテンツの男よりもまだ哀れな存在だといえる。快楽から閉め出されていることよりも、苦悩から閉めだされている人間の方が哀れなのだ。なぜなら、君の求めているはずの共苦の絆すら、そこには生まれないからだ。快楽は人を孤独にするが、苦悩は人間の連帯を生む可能性があるからね。」 

・・・・やれやれ。