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池澤夏樹 『花を運ぶ妹』(文春文庫)2/2

 それにしてもドイツ女インゲボルグのヘロインへの誘いは迫力がある。 
 以下、少し長いが抜き書きする。

 p243-6

 インゲボルグ「哲郎のバリの花の絵はいいわ。でもそれはすぐに萎れる花を描いているからいいのではない。その花の後ろに、一輪の花を超えた永遠の時間が見えるときだけあなたの花の絵は美しいの。絵描きは一瞬を賛美するふりをしながら、実は永遠をたたえなければならない。生命は短いけれども、それはもっともっと長い、ゆっくりした岩の時間によって背後から支えられているから美しく見えるだけだと思うの」

 哲郎「絵を描くときにはそんなことは考えない」

 インゲボルグ「頭は考えないけれど、ずっと深いところで心は考えている」

 哲郎「どうしてそんなことがわかる?」

 インゲボルグ「あなたの絵を見れば」

 哲郎は、それは理屈のための理屈でしかないと思いながら、反論ができない。

 インゲボルグ「映画がどうしても世俗性から逃れられないのは、目の前の時間に捕らわれているからよ。映画は時間を映す道具だから、だから駄目なの」

 哲郎「ではいつもそれを、ゆっくりとしか変化しない岩や星のことを意識して描けば、いい絵になるってわけ?」

 インゲボルグ「そんなに簡単なものでないことはよくわかっているでしょう?岩になる。岩であることの幸福を知っている。それを知っていればいいのよ。
 私は自分が西洋人でありながら、西洋人はおろかだと思っている。変化するものの背後に変わらないものがあってすべてを支えていることを忘れている。クリスチャンたちは大急ぎで最後の審判まで走ってしまおうと考えている。それに対して、私が勉強した限り、東洋の理想は岩になることよ。生き急ぐ生命の原理を超越して、ゆっくりした時間感覚を身につけ、不動の自分になって万物を観照する」

 哲郎「しかしね、ぼくに言わせれば、絵というのは技術だよ。うまい絵描きと下手な絵描きがいるだけだ。あなたの言うようなそんな難しい哲学は必要ない」

 インゲボルグ「いいえ、そう思っている限りあなたはある一線を超えることができない。超絶的にうまくて超絶的につまらない画家になる」

 そう聞いたとたん、哲郎にはまさにその表現にふさわしい画家が何人か浮かんだ。ああはなりたくない。

 インゲボルグ「絵っていうのはいちばん宇宙に近い芸術なの。アンドロメダ星雲の先まで行っても絵は描けるの。空気がなくて唄が歌えないところでも、人がいなくて言葉がつかえないところでも、絵は描ける。私は年に一度ここバリにくる。そして岩の快楽、死の快楽を味わって帰る」

 「え、どういう意味?」哲郎はよくわからないでそう訊ね返した。

 インゲボルグ「生物として生きるというのはとても細かい時間単位で外界と反応をやり取りすることでしょ?でも、もっとゆっくりと、何もしないまま横たわっているという快楽があるの。応答なし、完全に閉鎖された自己。指一本動かさず、見るだけの存在になる」

 哲郎「どうやって?」

 インゲボルグ「死を先取りして体験する」

 哲郎「だからどうやって?」

 インゲボルグ「それは本当にいい気持ち。岩になって、十年百年の尺度を捨ててすべてを肯定する。岩の生は長い長い時間に備えて希釈された快楽だけでできている。岩になれば苦痛なんて感じないのよ。私は年に一度ここに来て、岩の快楽を得て、数時間を数百年として過ごして、それで得た力でそれからの一年をまたなんとか暮らす」

 哲郎のなかに警戒が生まれる。この人は何のことをいっているのだ。何をしろというのだ。

池澤夏樹 『花を運ぶ妹』(文春文庫)1/2

 秀作小説。『アトミックボックス』、『マシアス・ギリの失脚』、『スティル・ライフ』、『夏の朝の成層圏』、『真昼のプリニウス』、『静かな大地』、『すばらしい新世界』、『光の指で触れよ』、『氷山の南』』、『南の島のティオ』と、発表年に関係なくランダムに池澤夏樹を読んできたが、この『花を運ぶ妹』はもっともよくできた作品であると思う。池澤は正義がどこまで行われているかを常に問う倫理性の強い作家だが、本作はその倫理性と、読者を喜ばせるストーリーテリングの技術がとても高いところで結びついている。
 西暦2000年の作品。1984年の『夏の朝の成層圏』で作家になった人だからほぼ中期の傑作と言える。英語・仏語の翻訳も出ているようだ。

 物語の主人公は哲郎とカヲルという一組の兄妹。哲郎は天才的な絵画の才能に恵まれており、ブーゲンビリアの大きな鉢を運んでいる妹を油絵に描いて全国高校芸術祭の絵画部門で金賞を取り評判になった。後年になって哲郎は自作を眺めたとき、太陽の微粒子が鉢の中に咲いているようなブーゲンビリアを運ぶ妹のおずおずとした姿勢に、ゴーギャンの『ヤコブと天使の戦い』の前景に描かれた祈る女たちの緊張感を見て取った。それほどに会心の作品だった。本作のタイトルはこのエピソードからとったものだ。  

 その哲郎がインドネシアのバリ島で写生旅行をしているとき、ふとしたことからインゲボルグというドイツ人の女性に出合い、ヘロインをやればもっともっと芸術の高みに行けると誘われてしまう。そしてとうとう口説き落され、中毒になり、街頭の売人からヘロインを買うようになるのだが、そのころバリ島警察で展開されていた麻薬撲滅キャンペーンの網におかしな形で引っ掛かってしまい、逮捕され収監されてしまう。
 哲郎は2グラムのヘロインを売人から買い、ホテルの部屋で吸っただけなのだが、誰がどう仕組んだのか、警察は哲郎がタイから200gものヘロインをバリに持ち込んだという重罪の嫌疑をかける。起訴され有罪になれば、よくて終身刑、成り行き次第では死刑の可能性さえある。

 哲郎が逮捕されたとき、妹のカヲルはバリの別の場所にいて、知人から哲夫のことを知らされて仰天する。あの「芸術家の兄」のことだから、何かの拍子でヘロインを吸うくらいのことはあるかもしれない。しかし200gをタイから持ち込むなどはありえない・・・。
 カヲルはいまはバリに遊びに来ているが、ふだんはパリのソルボンヌに在籍しながら、モンマルトルの旅行代理店で学生やバックパッカー相手に格安航空券などを手配して生活費を稼いでいる。警察相手に正面からは戦えないが、東京やパリに多くの知人・友人・仕事仲間がいる。それを生かして、苦労しながらジャカルタ政界とつながる日本人フィクサーやバリの有力弁護士にわたりをつけ、地元警察の弱点を探り、ありもしない「ヘロイン200g持ち込み」がどのようにしてでっちあげられたのかを明らかにしようと奮闘する。ここのあたりのカヲルの活躍、哲郎の絶望と憂愁など、池澤の語りにはどんな読者でも引き込まずにはいられないだろう。物語の終わり近く、ハッピーエンドがわかって読者はようやく安心する。

山本義隆 『近代日本一五〇年』(岩波新書)3/3

 第5章 戦時下の科学技術

 国民健康保険の改革、食糧管理制度は戦中の国民総動員体制のなかで作られた。
 その冷徹で合理的な政策は、アメリカ軍の占領政策にも引き継がれた。

 p175

 軍部上層部は、日中戦争から太平洋戦争にいたる時期の国民総動員体制のなかで、蒙昧な神話的歴史観や空疎な精神主義を多用していたとしても、それだけで近代戦を戦えると信じていたわけではない。
 神話宣伝や精神主義は、高度の科学技術と大量の物資を必要とする20世紀の戦争において、自然科学(物理学と化学)と社会科学(経済学と社会工学)の要求する合理性を前にしては、たちまちその限界を露呈する。国粋主義者たちの荒々しい反科学主義は、じつは非協力の声を押しつぶす手荒な地ならしにすぎなかった。社会科学だけをとってみても、冷徹ながら合理的ともいえる国民皆保険政策、食糧管理政策が遂行された。そしてこの政策はアメリカ軍の占領政策にも引き継がれ、戦後長く続いた国家体制の基本になった。

 p190-2

 それはたとえば1941年の食糧管理制度に見ることができる。この食糧管理制度によって、それまで小作農が地主に現物で支払っていた小作米を政府に直接供出するようになり、地代相当分は政府から現金で地主に支払うように変更された。そして小作料は物価変動があっても据え置かれたため、戦時体制の進行とともに物価が上がっても小作農の実質負担は軽減され、そのうえ小作農には増産奨励金が与えられたために、小作農の生活向上が図られていった。

 明治以来の徴兵制は四民平等にもとづく制度であり、すべての国民を「天皇の赤子」と一元化して国への奉仕を強要するには、農村の小作人と都市の労働者、サラリーマンや自営業者との間に、過度の社会的格差があっては不都合だったのである。世界支配をかかげたナチスドイツが運命共同体の標語のもとにドイツ国民の社会的身分差別の撤廃をかかげたのも、同じ事情である。

 その意味では、戦時下の国民健康保険の改革も同様である。1922年公布の健康保険法では、加入資格は工場法と鉱業法の適用を受けている大規模事業所の従業員本人に限られ、農民は完全に放置されていた。
 これにたいして、日中戦争勃発直後の1938年の国民健康法制定は、農家における医療費の重圧を軽減させるためのものであった。ちなみに厚生省が陸軍の主導で内務省から分離独立して設置されたのがおなじ1938年で、ツベルクリン反応・X線検査・BCG接種という結核予防システムが採用されたのは翌39年である。戦争が「健民健兵」を必要とするかぎり、国家は国民の健康管理に配慮する必要があったのだ。

 こうして、1930年代後半から40年代前半の総力戦体制によって、たしかに、社会関係の平等化、近代化というパラドックスが進行した。経済学者の大河内一男が言ったように「社会立法によって労働者を保全することは、ただ労働力を量的に確保するだけではなく、産業社会そのものの機構を安定させ、円滑な再生産を促すための欠かせない手続きである。この意味で、社会立法は単なる倫理の問題ではない」。

 一部の学者・学徒が右翼国粋主義者反知性主義の非合理に抵抗しようとしても、じつは彼ら自身が社会全体の高度化をめざす科学の発展を第一としていた。その限りにおいて、総力戦・科学戦にむけた軍と官僚による近代化・合理化の攻勢に対しては抵抗する論理を持てるはずはなく、巨大な管理と統制に簡単に呑み込まれていった。

山本義隆 『近代日本一五〇年』(岩波新書)2/3

 第3章 帝国主義と科学

 初代文部大臣・森有礼はなかば以上本気で、日本語の廃止・英語の採用と
 米国子女との結婚による人種改良、を考えていた。

 p90-3

 黒船によって象徴された西欧文明の軍事的優越性は、同時に、西欧文明の知的優位性を押しつけるものだった。1885年に初代文部大臣に就任する森有礼は、明治の初め駐アメリカ公使であったときに、日本からの留学生に以下の訓辞を垂れている。

 「そもそも日本語にては文明開化を図ること能はず。よって余は日本語を廃止して英語を採用せんと欲す。・・・また日本を文明開化の域に進むるには、日本語の廃止のみにては十分ならず。まず日本人種を改良せざるをえざるなり」。ゆえに日本人は将来欧米人と雑婚の必要あり。よって君らは留学中、米国の娘と交際し、その女子と結婚して帰国すべし。」

 ハーバードで直接この訓辞を聞いた、のちの伊藤内閣の閣僚・金子堅太郎の晩年の回想録の一節だが、この手の回想録には誇張や潤色がつきものだとしても、まったくの作り話ではないだろう。こういう人物が文部大臣になったのかと思うと現在の私たちはあきれてしまうが、当時、欧米のことをいくらかでも知ることになった日本の知識人の多くは、ここまで極端ではないにせよ、多かれ少なかれ西洋文明にコンプレックスを抱いていた。

  清国と朝鮮に対しては上から目線で、
 文明東漸の世界風潮に際し、その独立を維持する道はなしと決めつけた。

 福沢諭吉も『文明論の概略』で「日本人の知恵と西洋人の知恵を比較すれば、文学、技術、商売、工業、最大のことより最小のことまで一として彼の右に出るものあらず」と繰り返している。(第6巻)

 しかし、アジアの諸国に先んじて独立の維持と曲りなりにもせよ近代化にある程度の目鼻がついた段階では、欧米に対する劣等感―「劣亜」の心情―が、近代化に立ち遅れた他のアジア諸国にたいする優越感―「蔑亜」の心情―に転化するのは容易な道であった。
 はやくも1876年に日本はペリーの黒船と同様の砲艦外交で、朝鮮に不平等条約を押しつけている。それはソウルに公使館を設置させ、釜山・仁川・元山を開港させて治外法権付の居留地を認めさせ、日本商品に対する関税の撤廃と日本通貨の使用を認めさせるという、きわめて一方的なもので、のちの朝鮮領有にいたる第一歩となった。

 ・・・こうしたなか、かつて日本の文明開化を熱く説いた福沢は1895年の『脱亜論』で「わが日本の国土はアジアの東辺境にありといえども、その国民の精神はすでにアジアの固陋を脱して、西洋の文明に移りたり」との現状認識を示し、自らを文明サイドに置いた。そのうえで「支那と朝鮮」は「古風旧慣に恋々する」ばかりと決めつけ、文字どおり上から目線で「支那・朝鮮の二国は、いまの文明東漸の風潮に際し、とてもその独立を維持する道はなし」と決めつけた。

山本義隆 『近代日本一五〇年』(岩波新書)1/3

 近代科学史の名著『磁力と重力の発見』(全3巻・みすず書房)を2003年に上梓した著者が、明治以来の日本の近代史を科学技術興隆史の視点から総浚いしたもの。『磁力と重力の発見』は物理学の鍵概念である「力の遠隔作用」が、西欧においてどのように「発見」されてきたかを丁寧に説く浩瀚な書だった。(本ブログ2012年9月3日~10月12日)

 そこでは、何であれ「発見」というものが、あるとき突然なされ一直線で「真実」となるものではなく、一人あるいは数人の図抜けた人間が、その時代を並走する類似カテゴリーの空想、信仰、思い込みなどを、牽強付会にも似た思弁によって「理論化」し、「真実」として完成させる、そうしたことが往々にしてあることを多くの実例をあげながら実証していた。

 このとき「理論化」にあたって強力な武器になったのが西欧人の「論理」の力だった。この「論理」の力こそが「第一原因論」をふくむ宇宙のすべてのヒエラルヒーを説明する近代哲学と近代数学を生み、近代数学こそが近代物理学を生み出した。その意味で、20世紀までに全世界を制覇した科学技術が、キリスト教観念論の精密論理学をそなえたヨーロッパのみに出現したのには、充分な理由がある。

 わが国が開国するに当たり、「たまたま」完成期に達していた西洋近代科学の果実をまるごと受け入れるタイミングにあったことなど、明治期の日本が本当に運に恵まれていたことなどから本書は説き起こされる。

 

第2章 資本主義への歩み

 明治初年の科学技術教育を推進したのは
 天皇親政を旗印とするもとテロリストたちだった

 p46

 明治初年において産業基盤と社会基盤の整備をすすめ、工業化を牽引したのは内務省に先んじて設置された工部省である。工部省は鉄道、鉱山、土木、造船、電信、製鉄などを中心事業として、民間に資本の乏しかった状況下で、自身で官営工場を建設し、経営に乗り出し、その近代化・工業化に必要な技術官僚・技術士官の育成に取り組んだ。ちなみに、これらの原資は、基本的には地租、すなわち農民からとりたてた租税だった。

 工部省によるこれらの政策と先行的技術者教育を推進したのが、俗に「長州ファイブ」と呼ばれた井上馨、井上勝、山尾庸三、遠藤謹助、そして伊藤博文である。彼らは幕末にイギリスに密航して、現地で実学を学んだ経験を共有している。とくに山尾は1871年に工業人材育成のための学校創設と海外留学制度を上申して工学寮創設にたずさわっており、のちにそれが工部大学校に発展し、現在の東京大学工学部の前身となった。

 上記のようなことは大概の書物には書かれているが、彼らが日本を脱出する前に何をしていたかは、あまり書かれていない。大仏次郎の長編『天皇の世紀』や司馬遼太郎の短編『死んでも死なぬ』によると、彼らは高杉晋作を首領にして1862年12月に品川御殿山に建設中の英国大使館を焼き打ちしたときのメンバーであり、そればかりかその八日後、山尾と伊藤は、塙保己一の息子で幕臣国学者・塙次郎が廃帝の典拠を調べているという根拠なき風説をもとに、待ち伏せして斬殺している。
 彼らは攘夷をとなえ天皇親政をめざすテロリストであった。司馬は、実際に塙を斬ったのは山尾だとしている。

 p58-60

 古典力学電磁気学、そして熱力学の原理が
 ほぼ出そろった時代に日本は開国した

 日本の開国はタイミングに恵まれていた。日本が近代化に乗り出した19世紀後半は、西洋諸国で科学研究が社会的に制度化され、それぞれの分野において研究を職業とする「科学者」が生まれた時代であった。そんな次第で日本は、はじめから科学を社会的に制度化された学問として受け入れることができたのであり、それゆえ、科学の習得や研究が国家の枠組みの中で組織的に能率よく行われることになった。

 そして同時に、その時代は、欧米においていわゆる古典物理学、つまり私たちが直接見たり触ったりすることが可能な巨視的世界の現象についての物理学である古典力学電磁気学、そして熱力学の原理がほぼ出そろった時代でもあった。
 当時はすべての物理現象はこれでもって原理的に説明がつくと考えられていた。微視的世界、つまり原子や分子の世界では古典物理学が適用できないと判明するのは20世紀になってからで、19世紀後半では物理学においては新しい発見はもはや望めないとさえ考えられていたほどである。素朴で納得しやすい物質現象と常識的で日常的な時空概念を基礎とする古典物理学がすべてであり、この点で、習得する日本側にとってもハードルは低かったと思われる。

 まさにその絶妙のタイミングで日本は西欧科学の移植を始めた。このことが、次の時代、つまり20世紀初頭の長岡半太郎による原子模型の提唱、1910年代の石原純による一般的な量子条件の定式化のような、世界に足跡を残しうるだけの先端的な研究が生まれることになる背景であった。開国が50年早くとも50年遅くとも、日本が欧米の物理学に追いつくのは大変にむずかしかったと思われる。

木村敏 『異常の構造』(講談社現代新書)

「異常者」の目印は「常識」の欠落 

p93-5 

 ごくありふれた精神分裂病の患者では、「常識の欠落」は患者自身によって経験されるよりも、周囲の人物に奇異の念をいだかせるような「他覚的症状」としてあらわれてくる。
 小さい時から親に口答えひとつしない、すなおで「良い子」だった人が、ある時を境にしてしだいに反抗的になり、ささいなことで親に乱暴したり、家の中のものを破壊したり、突然家出をして遠方へ出かけたりする。これまで何でも打ち明けてくれていたのに、急に誰とも口を利かなくなり、ひとりで部屋に閉じこもって相手もいないのにひとりごとのようにつぶやきはじめ、時には唐突に笑い出したりする。態度が粗暴になり、生活が乱れ、学校の成績が急に低下する。家族が心配して医者に見せようとしても、本人はどこにも異常はないと言い張って、どうしても医者の所へ行こうとしない。
 ――だいたいの分裂病者は、このような経過をたどって精神科医のもとに連れてこられることになる。家庭により、患者の性格により、こまかな点では違いはあっても、大多数の分裂病者の「発病」の様相は意外なほど似かよっている。そして患者の「行動の異常」は「常識の欠落」という表現でおおむね言い表すことができる。

 ここで注目されるのは、精神分裂病者における行動の異常が、もっぱら対人関係の領域にのみ出現するということだ。かりに患者が一人で自室に閉じこもってひとりごとをつぶやいているというような場合でも、患者は決して一人でいるのではない。むしろ、周囲の人から見て患者一人しかいないような場所にすら対人関係が出現している。

 常識人の「合理性」の根拠は確かなものか

 p144-5

 精神病者に対する「人道的」処遇が声高に叫ばれるたびごとに、そこにはもう一つの、それとはまったく不調和な声が、つまり常識人が自らの心を痛めることなく、精神病者をできるかぎり排除し尽くそうという「持続低音」が、低く、しかし明瞭に聞き取れはしないだろうか。
 新聞の同一紙面に、精神病院内での非人道的な行為と、精神病者の「野放し」の危険性とが大見出しで書きたてられているのは、まことに象徴的なことである。「異常者」は危険な存在だからひとり残らず病院に収容すべきである、そして病院内では彼らに最大限の「人権」が与えられるべきである――この二つの主張の奇妙な対位法こそ、現代の合理化社会の体質をみごと象徴してはいないだろうか。

 私たち「正常者」の社会は、いったいいかなる論理と正当性でもって「異常者」を排除しているのか。この排除は、「異常者」が「正常者」の日常的な常識を構成する合理的から逸脱しているという理由にもとづいておこなわれている。
 とするならば上の問いはさらに次の二つの問いに分けられる。まず、合理性はいかなる論理でもって非合理を排除できるのか。つぎに、合理性の枠内にある「正常者」の社会は、どんな根拠によって非合理の「異常者」の存在を拒むことができるのか。

 p153-9

 私たちは、私たちを取り巻いている世界に立ち現われてくるいろいろな物体や音、匂いなどについて、それらの知覚対象が実在することを疑っていない。この思いは、そういった物体や音や匂いが実際に客観的に存在するからであって、私たち自身の勝手な空想的産物ではないと思っている。これが私たちの日常的・常識的な感じ方であり考え方である。

 世界の実在を素朴に信頼するという常識的日常性のこの錯覚は、ある幾何学図形の錯視などのようには容易に解消できない。この錯覚は、私たち自身の中に深く根を下ろしていて、私たち自身の「存在感」と根本的に結びついているような錯覚である。私たちは生きることを欲し、存在することを欲している。この錯覚はわたしたち自身の「存在への意志」、「正常への意志」なのだ。

 しかし、私たちがなんらかの理由で存在への意志を放棄したとき、あるいはもっと積極的に存在を拒もうとしたとき、あるいは私たちの生命力が深いところで頓挫して、生への意志が活動を停止したとき、常識的・合理的世界はたちまちその実在性と現実性を失って、たんなる感覚的所与のモザイクに変わってしまう。たとえば「正常者」にとっては単なる幻視や幻聴である現象も、「異常者」にとっては確かに見え、聴こえているものである。常識的・合理的世界の脆さ・危うさはこんな簡単な事実にも端的にあらわされているだろう。

 

H・グリーン 『手のことば』(みすず書房)

 この本を読むと、私たちが聾者の世界というものをほとんど想像できないままでいることがよく分かる。

 聾ということはただ耳が聞こえないということではない。耳が聞こえないということは言葉がない世界にいるということである。手話ができれば言葉があるではないかというのは健常者のの思い込みにすぎない。手話というのはある単語、状況、動作を含めておおざっぱに抽象化、図形化し、それに話し手の表情などを付け加えたものである。単語の細かな意味の違い、たとえば「なさけ」と「人情」、「けしき」と「光景」、「てざわり」と「風合い」などの違いを手話で解ってもらうのはとても難しい。人情、光景、風合いなどは単語の文字をそのまま覚えてもらうしかないが、その「覚える」過程で具体的な「人」と抽象的な「情」、具体的な「光」と抽象的な「景」、具体的な「風」と抽象的な「合」がどうして結びつくのかを手話で理解してもらうのはたいへんな忍耐と時間を必要とする。

 三重苦のヘレン・ケラーが「盲」であるのと「聾」であるのとどちらかを選べと言われたら、と問われて、即座に「盲」の方を選ぶと答えたという逸話があるらしいが、この本の訳された方も「訳出しながら、言葉のない世界がいかにわれわれの安易な想像を絶する性質のものかというのを痛感させられた」としみじみ述べられている。

 p189-90

 (両親が聾であるが自身は健常者である)マーガレットはボーイフレンドのウィリアムが手紙でいくら「愛している」と書いてくれても冷たいものを感じてしまうのだった。二日置いてまた読み返してもその感じは変わらなかった。そしてその原因が分かった。ウィリアムは聾ということをまったく理解していないのだ。人間の思想とかおよそあらゆる「考える」ことのにない手である<言葉>というものがない世界を知らないのだ。手で触れ、目で見えるもの以外の、思考を受け容れる手段を持たない人がいるということが分からないのだ。
 彼は聾とは単に音のない世界だと思っている。「言葉のない世界」だということを知らない。マーガレット自身は聞こえる人であり、話すこともできたし一般以上の知力のある人だったけれども、近しい大人が両親だけだった幼児のときには長い間言葉を持たなかった。だから社会に自由に生きていくうえでの想像力をまったく持つことができない時期があった。

 マーガレットは小学3年生のとき先生に言われたことを憶えている。
 「ここに“友好的”(フレンドリー)という語がありますね。あなたは『犬と猫は友好的をつくることができない』と書きましたね。そのような使い方はしないのよ」
 それから先生は“友”(フレンド)という語について、いっぱい説明を加えた。
 どうしてこんなにいろいろな言い方をする必要があるのだろう。“友情”(フレンドリシップ)、“友好的なこと”(フレンドリネス)、“友好的”(フレンドリー)、といったって、だいたい同じことではないか。なぜ区別する必要があるのかがマーガレットには想像できなかった。それを想像できないマーガレットは4年生に進級できなかった。当時の学校というのはそんな世界だった。