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プルースト 『失われたときを求めて 3 第二篇 花咲く乙女たちのかげに スワン夫人をめぐって』(岩波文庫)3/13

 翻訳者・吉川一義氏によれば、岩波文庫版全十四巻のうち読者がもっとも苦労するのが第三巻に当たる本巻らしい。スワンとオデットの娘であるジルベルトへの「私」の恋心と自意識が全巻を覆いつくしていて、その全長何千メートルもある蛇のような自意識の流れを書かれたとおりにたどっていけば、とても悠然とソファに寝転がって読み進められる代物ではないことがわかって、読者は途方に暮れてしまう。

 巻末 訳者あとがき p492

 プルーストの愛読者の中には小説に叙情的陶酔を求め、「さわり」だけを拾い読みするだけで満足し、『失われたときを求めて』も好きなページだけを読めばいいと考え、他人にもそう勧める人がいる。どのように読もうと自由ではあるが、そのような人は本巻「スワン夫人をめぐって」のように恋愛や芸術に関する抽象的考察がつづく箇所には歯が立たない。そのような陶酔型読者には、筋の展開をたえず中断して介入する脱線というか、注釈というか、長ったらしい省察などは、わずらわしいだけであろう。多くの読者が『失われたときを求めて』の完読をめざしながら挫折する主たる要因はここにある。

 p140

 前編第三部におけるシャンゼリゼでの出会いを受けて本巻では、「私」がスワン夫妻の娘ジルベルトに寄せる恋心の顛末が延々と語られる。その「私」はやはり、かつてオデットに対したスワンと同じく「自分の想像力がもたらした」<恋のようなもの>の病に冒された少年である。

 一月一日になると、私はお母さんと連れ立って親戚回りをしたが、その道筋にラ・ベルが今夜演じる出し物『フェードル』のポスターが貼られていた。それを見たとたん、私はハッと予感がした。元旦はほかの日と異なる日ではない、新たな世界の始まる日ではない、と感じたのである。
 その直前まで私としては、この新たな世界で、いまだ白紙の可能性を秘めたジルベルトとの交際をやり直せるのではないかと考えていた。あたかも「天地創造」のときように、いまだ過去が存在せず、ジルベルトから味わわされた失望も十二月三十一日をもって完全に消滅する新たな世界では、古い世界から引き続いて存続するものは何一つない、と考えていたのだ。

 元旦のほうは己が元旦と呼ばれているなどつゆ知らず、なんら変わることなくよい闇の中にくれていくのが感じられた。私は家に帰った。「私」が過ごしたのは老人の一月一日だった。その日に老人が若者と区別されるのは、もはやお年玉をもらえないからではなく、老人がもはや元旦など信じていないからである。

 

 

プルースト 『失われた時を求めて』 第一篇「スワン家のほうへⅠ」1/13(2013年9月26日分の再録)

 昔、新潮社・井上究一郎訳の8巻本を買って読み始めたわたしもそうだったが、『失われた時を求めて』を読もうとする人は最初の10ページほどで挫折する。岩波文庫の今回の新訳でいうと、有名な「ながいこと私は早めに寝むことにしていた」という書き出しから36ページの中ほどまで、本文が始まってわずか11ページ分ほどである。
 この冒頭だけが語り手のいつのシーンなのか分からず、以後どんな筋が動き出すのか暗示さえもない。しかも改行はほとんどなく、ワンセンテンスがとても長く、主語と述語の間が10行もあったりする。もちろん会話体は一切ない。これは、後の数千ページを考えると、相当しんどい事態である。

 今回の岩波文庫版の翻訳者吉川一義京都大学教授は、我慢は36ページまででよいとはっきり知らせてくれる。その36ページに1行アキがあって、それから以降、両親と祖父母と大叔母たちがいる19世紀のおかしなフランスブルジョア家庭に育った「わたし」の「心のなか」がゆっくり流れ始まる、と教えてくれる。吉川教授はこの36ページまでについても、その意味付けを冒頭に解説し、読者をいらつかせたり挫折させないようにしてくれている。吉川教授の簡明にして直截、自在にして達意な日本語によって、プルーストはものずきな研究者だけの、敬うけれども遠ざけておきたい宝物ではなくなった。見開きの左ページについている訳注も丁寧で簡潔、過不足がない。
 この子供の「心の流れ」はサルトル『言葉』の幼年時代のものとほとんど同じである。『失われた時を求めて』でも、十歳前の子供の「心のなか」を後年の「私」が「流れ」に再構成しているのだが、子供の「心のなか」はそのままを記述しても大人が理解できる「意識」にはなりようがなく、プルーストサルトルも、「九歳なりに、崩壊した世界の底から不可能な『理念』を観想している」ような子供を書く。つまりすべてが未成熟なかわりに、善も悪も他人の行為を見つめる視線も、すべて芽吹いて揃っている 「小さな大人」 を書く。
 この「心の流れ」とは文法も時制も無視し、読者の想像を超えてかって気ままに自動記述されていくようなたぐいのものではない。プルーストには読者の理解をあえて拒絶するような難解ぶったところはない、これまでの日本語訳でそう思われてきたのは翻訳者が「厳密な意訳」をしてこなかったからだ、ということを吉川一義教授の訳文は見せてくれる。
 p107 
 今、日本の小説家の誰が以下のような文章を書けるだろう。プルーストが『失われた時を求めて』を書いてからは、「以後、小説家は波瀾万丈のプロットづくりに精を出すしかなくなった」と極言されるのがよく分かる。それは、
 「母は、文章をふさわしい口調で読むにあたり、言葉では示されていないが、文章が生まれる以前に存在し、その文章を書き取らせたはずの温情あふれる調子を見出した。その調子のおかげで朗読中の母は、動詞の時制にありがちな乱暴なところを和らげ、半過去と定過去に、善意に含まれる優しさ、愛情に含まれる憂愁を注ぎ込み、終わりかけの一文をつぎに始まる一文へと導き、シラブルの進行を速めたり弛めたりしては、長さの異なるシラブルを単一のリズムに吸収し、ジョルジュ・サンドのありふれた散文に、いわば情感あふれる持続的生命を吹き込んだのである。」  というような文章のことを指す。
 p109−10 
 育ったコンブレーは、ながいこと、私にとっては七時に上らなければならない二階の自分の部屋と階下の母のいる客間だけでできているように回想された。かりに問いただす人がいたら、私とて、コンブレーにはほかのものもほかの時間も存在していたと答えたであろう。だがそんなふうに想い出したとしても、それは意志の記憶、知性の記憶によって提供されたもので、それが過去について教えてくれる中に過去はなんら保存されていないので、私としてもほかのコンブレーをけっして想いうかべようとしなかっただろう。われわれが過去を想いうかべようとしても無駄で、知性はいくら努力しても無力なのだ。
 p111・115
 失われた時を求めて』の中でいちばん有名かもしれない 「マドレーヌの匂いの記憶」 はこの第一巻に出てくる。たしかに『失われた時を求めて』らしい挿話ではあるのだが、このようなことは第二巻以降も、いくらでも出てくる。なぜ第一巻のこれだけが有名なのだろうか・・・? 
 コンブレーに関するすべてものをよみがえらせたのは、後年、レオニ叔母が出してくれた一切れのマドレーヌの匂いである。それは、幼いころ風邪気味の私に母が紅茶といっしょに勧めてくれたひとかけらのマドレーヌにまつわる記憶だった。そのひと口が口蓋にふれたとたん、わたしは身震いし、小さなわたしは内部で尋常ならざることが起こっているのに気づいた。えもいわれぬ快感が私に中に入り込み・・・・・・人生の災厄も無害なものに感じられ・・・・・・もはや自分が凡庸な偶然の産物で、死すべき存在だとは思えなくなった。人びとが死に絶え、さまざまなものが破壊されたあとにも、ただひとり、はるかに脆弱なのに生命力にあふれ、はるかに非物質的なのに永続性がある・・・・・そのようなものこそ、匂いと風味である。
 p194 
 次の数行も、サルトル『言葉』に書かれてあってもまったくおかしくない章句である。サルトルプルーストを深く読んだというよりは、こういった内省の仕方が、フランス知識階級には一般的ということなのだろう。
 私の思考こそ、もうひとつの隠れ家といえるのではないか。わたしはその隠れ家の奥にもぐりこんで外のできごとを眺めている気がする。自分の外にある対象を見つめるとき、それを見ているという意識が私と対象のあいだに残り、それが対象に薄い精神の縁飾りをかぶせるため、けっして対象の素材にじかにふれることができない。・・・私のうちに存在したもっとも内密なもの、把手のようにたえず活動して残余のすべてを統御していたささやかなものは、読んでいる本の哲学的豊穣さ、美点に対する信頼であり、それをわがものとしたいという欲求であった。・・・真実と美のなかば予感され、なかば理解不能なところを認識するのが、漠然としているとはいえ永久に変わることのない私の思索の目的と思えたのである。
 そのような意識のなかに同時に併置されるさまざまな状態を内から外へとたどりつづけ、それらを包みこむ現実の視界に到達する前に最後に私が見いだすのは、たとえばサン=チレールの鐘塔で時を告げる鐘の音や、フランソワーズが用意してくれるおいしい食事という別のジャンルの楽しみだった。
 p260
 (衰弱し、少し頭のおかしくなっていた)大叔母は、私たち家族のことは心底から愛していたが、その死を嘆き悲しむことにも喜びを感じたはずである。気分がよく汗もかいていないときなど、家が火事だという警報が舞い込むことは、しばしば叔母の期待にとり憑いたに違いない。そうなれば長期にわたる哀悼のなかで家族に対する自分の愛情を味わい尽くすことができるうえ、村中が唖然とするなか喪主をつとめ、今までは打ちひしがれた瀕死の老人が健気にきちんと立つ姿を見せられるという副次的利点もあったからである。
 大叔母が、孤独のなか、えんえんとカードの一人占いに熱中しているとき、きっとこの種のできごとの成就を期待したにちがいないが、もちろんそんなことはいっさい起こらなかった。二度とその口調を忘れることができない悪い知らせに刻印されている現実の死は、論理的で抽象的な死の可能性とはまるで異なるからである。
 p309
 スワン家の娘ジルベルトに初めて会ったときの少年・「私」のまなざしの精密な描写。
 私のほうも少女を見つめた。最初のまなざしは、目の代弁者というだけでなく、不安で立ちすくむときには全感覚がまなざしという窓に動員されるように、眺める相手の肉体とともにその魂にまで触れ、それを捉えて連れて行こうとするまなざしである。ついで第二のまなざしは、祖父と父がいまにもこの少女に気づき、自分たちのすこし前をさっさと歩くように命じて私を遠ざけるのではないかと怖れたからであろう、少女が私に注意をはらい、私と知り合いになるよう、無意識のうちに懇願するまなざしになった。
 p315
 「スワン」という名前を聞くと私はようやく一息ついた。それほどこの名前は私の心が窒息するほど重くのしかかっていた。その名前がほかの名前より中身が詰まっているかに感じられるのは、前もって私が心のなかでそれを口にした回数分だけ重くなっていたからである。
 p347
 心の底の裏の裏を三回ほどひねりまわした後の「素直な思い」を正確に記述できるプルーストの技術。夏目漱石も同じレベルの熟練の技を『明暗』の中で、読むほうがつらくなるほど使っていた。
「開けときなさいよ、暑いの」と友だちが言った。
「だって困るでしょ、見られたら」とヴァントイユ嬢が答える。
 しかしヴァントイユ嬢は、友だちのほうは、自分がそう言ったのは相手をそそのかして返事として別の言葉を言わせるためで、その言葉が聞きたい本心は深く包み隠しておいて相手が率先してそれを口にするのを期待していると考えるだろう、と推察した。

プルースト 『失われたときを求めて 2 第一篇「スワン家のほうへⅡ(スワンの恋)』」2/13

 p404-14

 この巻においてスワンの中でオデットが決定的に変貌し、穏やかな情愛で愛される女性になる。もちろん数十ページ前からその準備は巧みに描かれているのだし、次の篇でスワンがオデットと結婚するのだから、この変貌は予想されていたのだが・・・。読者に否めない唐突感を打ち消すためにプルーストはつぎのように書く。

 別れてきたばかりの恋心に、まるで消え行く景色に対するようにもう一度再会したいと思ったものの、別の人になりきったスワンにはもはや持ち合わせない感情の真の情景を目の当たりにするのは至難のわざで、頭のなかはすぐに暗闇となって何も見えなかった。

 この無感覚は、汽車に乗った旅人が、実に長いこと暮らした国が見えなくなる前に最後の別れを告げるつもりが眠気に襲われ、どんどんスピードを上げる汽車が自分を遠くに運び去るのを感じつつ帽子を目深にかぶって寝てしまうのと同然である。

 p421

 そして数日後コンブレーに行く汽車の中で、スワンはオデットをはじめて見たときの、まだ恋に落ちる前のオデットの青白い顔、あまりに痩せこけた頬、やつれた目鼻立ち、隈のできた目をおもいだし、自分の道徳的水準が低下したときにたちまち間歇的に頭をもたげる野卑な口調で、心中にこう言い放つ。「いやはや、自分の人生を何年も台無しにしてしまった。死のうとまで思いつめ、かつてないほどの大恋愛をしてしまった。気にも入らなければ、好みでもない女に!」

 この最後の2、3行は、全巻を読み終わったとき、(少なくとも僕にとっては)重大な意味を持つ。

 

村上春樹 『職業としての小説家』(新潮文庫)1/3

 スラスラ読んでいくうちに読者をいつの間にか謎の井戸の中に引き込んでしまう、平明さと不可解なメタファーが同居する村上春樹独特の文体。彼はそれをどうやって自分のものにしたのか。 40年近く小説を書いてきた職業人としての身上書であるこの本には、その方法論のようなものが、たとえば「ものごとの理屈を作家が説明しようとしてはいけない」とか「謎めいた事件を書く時には謎めいた言葉とリズムで謎めきのありようを作り出さねばならない」というような態度のあり方とかが、ちょっと見には誰にでも理解できるよう書かれている。
 小説家とはどんな人種なのか。オリジナリティとは何か。登場人物の作り出し方。短編小説と長編小説では作家は何を変えなければならないか・・・・、などちょっとでも文章を書いた経験のある人なら興味津々の内容が程よい密度で詰まっている。

  何を書けばいいのか

 p132-7

 僕は古典作品を書いた大作家やいわゆる正統派文学作家が経験したような戦争を体験していませんし、上の世代の人たちのように戦後の混乱や飢えも経験していません。とくに革命も(もどきの革命は体験していますがそれは特に語りたいような代物ではありませんでした)体験していないし熾烈な虐待や差別にあった覚えもありません。
 ですから僕が最初の小説『風の歌を聴け』を書こうとしたとき、「これはもう何も書くことがないということを書くしかないんじゃないか」と痛感しました。「何も書くことがない」ということを逆に武器にして、そういうところから小説を書き進めていくしか、先行する世代の作家たちに対抗する手段はないだろうと。大きなテーマとか経験がないのだから、とにかくありあわせのもので物語を作っていこうじゃないかということです。
 そのためには新しい言葉と文体が必要になります。これまでの作家が使ってこなかったようなヴィークル=言葉と文体をこしらえなくてはなりません。戦争とか革命とか飢えとか、そういう重い問題を扱わない(扱えない)となると、必然的に軽いマテリアルを扱うことになるのだから、そのためには軽量ではあっても俊敏で機動力のあるヴィークルがどうしても必要になります。
 ここで僕が心がけたのは、まず「説明しない」ということでした。それよりはいろんな断片的なエピソードやイメージや光景や言葉を、小説という容器に中にどんどん放り込んで、それを立体的に組み合わせていく。そしてその組み合わせは世間的ロジックや従来の文芸的イディオムとは関わりのない場所で行う。それが『風の歌を聴け』を作るときの基本的スキームとなりました。
 僕はこの経験から思うんですが、「書くべきことが何もない」というところから出発する場合、エンジンがかかるまでは結構大変ですが、いったんヴィークルが機動力を得て前に進み始めると、そのあとはかえって楽になります。なぜなら「書くべきことを持ち合わせていない」というのは、言い換えれば「何だって自由に書ける」という音を意味するからです。たとえあなたの手にしているのが「軽量級」のマテリアルで、その量が限られているとしても、その組み合わせ方のマジックさえ会得すれば、僕らはそれこそいくらでも物語を立ち上げていくことができます。そしてもしあなたがその作業に熟達すれば、そこから驚くばかりに「重く深いもの」を構築していくことができるようになります。
 たとえば倫理という問題。これほど重く深い問題はないかもしれません。あなたが軽量級のヴィークルしか持ち合わせがないとき、その言葉と文体で倫理の繭玉を慎重に物語るのではなく「説明」しようとしたら、それは悲惨な結果に終わるでしょう。
 軽量級のマテリアルをどうやって組み合わせるか、僕の場合その作業を進めるにあたっては音楽が何より役立ちました。ちょうど音楽を演奏するような要領で、僕は文章を作っていきました。音楽の中でも最も説明的ではないジャズがこのとき主に役立ちました。ご存じのようにジャズにとって一番大事なのはリズムであって、歌い上げる「何か」ではありません。的確でソリッドなリズムを終始キープしなくてはなりません。そのつぎにコード(和音)があります。奇麗な和音、濁った和音、派生的な和音、基礎音を省いた和音、いろんな和音があります。みんなおなじ88鍵のピアノを使って演奏しているのに、演奏する人によってこんなにも和音の響きが違ってくるのかとびっくりするくらいです。
 そしてこの事実は僕らに重要な示唆を与えてくれます。たった88のマテリアルしかないのに、「ピアノではもう新しいことなんてできないよ」ということにはならないということです。小説を作る場合、どんなに軽量級のヴィークルでも使う単語が88しかないということはありません。

シュテファン・ツヴァイク 『ジョゼフ・フーシェ』(岩波文庫)2/2

 p329-32

 1815年、エルバ島を脱出しパリに凱旋した「100日天下」当時のナポレオンは、運命の回り合わせで名前だけが皇帝であったにすぎなかった。しかるに彼の傍らにいるフーシェは、まさにこの時代こそ、あぶらの乗った最中だった。刀のように鋭い切れ味をつねに詭計の鞘に秘しているその理性は、絶えずきりきり舞いしているナポレオンの情熱のようにはすり減らなかった。帝政の復活と没落の間のあの100日天下におけるほど、フーシェが老練狡猾な、円転滑脱な才を示したことはない。

 ルイ18世共和党員も、王党派の人々もロンドンもウィーンも、フーシェをもって交渉するに足る唯一の相手と目していたのであって、彼の数学的な冷静な理性のほうが、ぱっと燃え上がって混迷の嵐のまにまに揺れ動くナポレオンの天才よりも、疲労困憊して平和を渇望している世界にとっては、安心を与えることが多かった。

 勢力不安定なナポレオン皇帝の使節が容赦なくとらえられて投獄されたその同じ国境が、オトラント公爵となっていたフーシェの密使に対しては、まるで魔法のカギで触ったのかのように、開けられるありさまだった。ウェリントンも、メッテルニヒも、タレーランもオルレアンも、露帝も諸国の王も、彼らはみなフーシェの密使をこぞって出迎え、下にも置かないように遇したのである。これまでみんなを散々だまして恨みを買ってきた男が、にわかに世界賭博における唯一の信頼しうるばくち打ちとして通ったのだ。

 この情勢を見てナポレオンは、これまではいつでも鉄拳をふるえたこの男にいまや自分が腕をねじ上げられ、国の選挙は自分に劣勢になるようにこの男が王党派から共和派まで切り回し、専制的な皇帝の意思は共和主義的な議会でブレーキを掛けられ、ことごとく邪魔されるのを黙ってみていなければならなかった。

 この数週間の政治こそ、世界史に現れた外交という仕事の、最も完璧なものと言わなければならない。個人としてはフーシェとは敵の間柄である理想主義者のラマルティーヌさえ、フーシェマキアベリスト的天才に対しては称賛を拒むことができなかった。彼はこう書いている。「フーシェは大胆極まる策を弄してナポレオンを包囲し、共和党員には阿諛し、フランス軍をなだめすかし、英・墺・独・露には秋波を送り、ルイ18世には微笑みかけ、思わせぶりな態度を示してタレーラン氏とも音信していたのであって―—―要するにすべてを彼の態度一つによって宙ぶらりんにしておいたのだ。これは高貴な精神を持たない役ではあるが、愛国心と英雄的勇気なしには果たせない役割でもある。歴史はフーシェを弾劾しながらも、かの100日天下の時に示した彼の態度の大胆なること、そして智謀百出、変通の才の偉大なることは認めないわけにはいかないだろう。」

シュテファン・ツヴァイク 『ジョゼフ・フーシェ』(岩波文庫)1/2

 大革命時代のフランスに興味のある人ならジョゼフ・フーシェという名前は聞いたことがあるかもしれない。あるいはタレーランメッテルニヒといった一筋縄ではとてもくくれない権謀術数の外交家にちかい人物ではなかったかと、それくらいのぼんやりした記憶はあるかもしれない。

 ツヴァイクははしがきで非常にわかりやすくフーシェを紹介している。
 「ジョゼフ・フーシェという人物は、その当時においては権勢並びなき人物の一人であり、最も異色ある人物の一人なのだが、同時代の人々からは毛嫌いされ、後世から公正な判断を受けたことはさらに少ない。ナポレオンはセント・ヘレナにおいて、ロベスピエールジャコバン党員の前で、またフランスのあらゆる歴史家はその立場が王党派であろうと、共和党であろうと、ボナパルト党であろうと、この名前をちょっと聞いただけで、最大級の憤懣を洩らしている。生まれながらの裏切り者、いやしむべき陰謀家、のらりくらりとした爬虫類的人物、変節漢、下劣な岡っ引き根性の持ち主、あさましい背徳漢・・・・、どのような侮蔑的罵詈も彼に浴びせられないものはなく、ラマルティーヌもミシュレもこの男の性格というよりはむしろ驚くほど執拗なその無性格を、まじめになって研究しようとするのだが、途中で「なんのためにこの男のことなど・・・」と思って投げだしている。

 p13-5
 1759年一介の市民ジョゼフ・フーシェは船乗りの家に生まれた。育ちの卑しい少年が世の中に出たいと思えば、門を開いているのは寺院だけだった。どんなに身分の低いものでも、この精神の王国には入ることができ、少年ジョゼフは数学と物理の教師として頭角を現して数年で学校管理者、塾長にまでなることができた。
 僧侶の誓約さえすれば、彼はもっと高い地位に登ることもでき、教団僧ともなり、ゆくゆくはおそらく僧正にも大僧正にもなれたであろう。ところが全くフーシェらしいやり口だが、その経歴の最初の段階で、すでに彼の本質の最も特質的な一面が示された。すなわち誰かある人やある物事に完全に結びついてしまうということに対する嫌悪の情が表れてくるのである。最初の十年間は僧服をまとい、頭を坊主にし、他の教父たちと僧院生活を共にし、他の僧侶たちと何も変わったところはなかったが、いざ上級の僧職授与式を受けるにあたって、彼はどのような制約も拒んだのだった。彼はまだ一人前の年齢になる前から、後年の彼が常にそうしたように、どのような境遇にあっても抜け道だけは開けておく、変転自在の可能性だけは残しておいたのである。
 革命政府、総裁政府、統領政府、帝国、王国に対する彼ののちのやり口と同様に、彼を迎えてくれた寺院にも一時ちょっとばかり身を寄せただけなのだ。ジョゼフ・フーシェは、人間はおろか神にさえ、終生不変の忠実を誓うことなど、夢にも思ったことはない。

シュテファン・ツヴァイク 『三人の巨匠』(みすず書房)2/2

 ディケンズ

 ディケンズの作品は伝統の中に安住しようとする
 イギリス国民の無意識の意志が芸術と化したものである

 p59-61

 イギリスという国の伝統は、フランスがフランス人に対するよりも、ドイツがドイツ人に対するよりも、微細な血管の網目をとおして、あまりに深くイギリス人の魂の土壌に食い込んでいる。それを引き剥がそうとすれば、自己の組織全体がズタズタになり、傷口から血が噴き出す。
 むろんイギリスにもバイロンシェリー、オスカー・ワイルドのように、自由な世界市民を渇望してそれを敢行した貴族はあった。彼らはイギリス人の永遠の市民根性を憎悪し、自己に巣食うイギリス人を根絶しようと試みた。しかし、彼らが引き裂いたものはみずからの生命にほかならなかった。

 イギリスの伝統の根強さは比類がなく、世界に勝利を誇っている。しかしそれは同時に芸術の最大の敵でもある。なぜか?イギリスの伝統は表裏の異なる狡猾な伝統だからだ。イギリスの伝統は無愛想や不愉快の様子は少しもなく、暖かい炉の火と安らかな住み心地で人をさそう。
 そのかわりそこには道徳の生け垣がある。四角四面に自己を限り、規制し、奔放な芸術活動にはあからさまな敵意を示す。よどんだ空気の充満するささやかな住居のように、生に危険な嵐から守られ、明るく、親しげに、客あしらいがよい。まさしく、市民的満足の暖炉が赤々と燃える「ホーム」である。しかし、世界を故郷とし、無限の広域に波乱多い遊牧のさすらいを味わおうとするものには、一転して牢獄となる。

 ディケンズはこのイギリスの伝統の中に安住した。四方の壁の中に家庭の一員として自己を適合させ、ここに家庭の幸福を感じ、生涯のあいだ一度もイギリスの芸術的、道徳的、美的限界を超えることがなかった。彼の体内の芸術家は、イギリス人との確執を経ることなしに、徐々に開花していった。イギリス国民の無意識の意志が芸術と化したもの、それがディケンズの作品である。
 ディケンズは、ナポレオンの英雄的世紀と、帝国主義すなわちイギリスの未来の夢との中間に挟まれたイギリス伝統の、こよなき文学的表出である。彼は惜しくも、彼の天分が当然なし得たはずの激烈なものをわれわれに与えてはくれなかったが、それを妨げたのはイギリスの民族そのものではなく、ヴィクトリア時代といういわれなき一時的現象である。

 シェークスピアも、イギリスにおける一つの時代の最高の可能性であり史的実現であった点は同じである。それがエリザベス時代という行動欲にあふれた、新鮮な感覚の、若くたくましいイギリスであったにすぎない。まさにイギリスが世界制覇を目指して蹴爪を伸ばしはじめ、たぎり立つ力に灼熱し振動していた時代なのだ。
 シェークスピアは行動と意志とエネルギーの世紀の落とし子なのだ。アメリカに夢の国土が獲得され、宿敵は打倒され、イタリーからルネサンスの火焔がイギリスという北の国まで広がって来ていた。「一つの神」の価値が下がり、生命力にあふれる新しい価値が世界を充たしはじめていた。
 シェークスピアが英雄的イギリスの顕現であったとすれば、ディケンズブルジョア的イギリスの象徴といわねばならない。彼はもう一人の女王、柔和で主婦的なほかにはとり得のない老クイーン・ヴィクトリアの光輝く臣下だったのだ。