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村上春樹 『約束された場所で』(文芸春秋)

 1995年の地下鉄サリン事件の1年半後、村上春樹はごく普通の市民生活をしている62人の被害者に自ら直接取材した『アンダーグラウンド』という長大なインタビュー本を出している。相手の心情に極めて丁寧に配慮しながら、どんな状況で突然被害にあい、それがどんな身体と精神の症状を引き起こしたか、その症状はそれから一年以上たったいまにどのような後遺症を残しているか、そして62人一人一人は加害者のオウムにいかなる感情を持ち続けているか・・・・、そのようなことを村上は単純なオウム糾弾に走ることなく「圧倒的な暴力が私たちの間に暴き出したもの」の正体に迫ろうとしていた。

 本書『約束された場所で』は、同じくインタビュー本ではあるが、今度は事件当時オウム真理教の内側にいた人間が相手である。しかし地下鉄内にサリンをまいた実行犯とか彼らに実行を指示した教団最上層部の人間ではない。それよりはかなり下っ端の、しかしいずれも出家信者であって宗教開祖の麻原に対し少なくとも一度は絶対帰依の感情を抱いていた人たちが相手である。「約束された場所で」とは「麻原尊師が約束してくれたホーリーランドで」という意味だろう。
 オウム裁判が一応は終わった。日本のマスメディアは「アレフ」はじめオウム関連教団にどれくらいの信者が残り、彼らが今後どう進むのかといった記事はもうほとんど載せなくなった。村上は下記のあとがきの中でこのことを深く憂えている。

 p280-1

 オウム信者たちは法廷でオウム真理教の教義の細部についての説明を求められると、しばしば「これは一般の方にはお分かりになりにくいでしょうが」という表現を用いた。そのような発言を聞くたびに私は、そこのある独特のトーンから、この人たちは何のかんの言っても自分たちは<一般の方々>よりは高い精神レベルにあるという選良意識をいまだに抱き続けているのだなという印象を受けないわけにはいかなかった。・・・「私たちをだまして一連の誤った命令を下したあの麻原彰晃が悪いのです。あの男さえ正気を失わなければ、私たちは平和に穏やかに、正しい宗教的な追求を行って、だれにも迷惑をかけずにすんでいたのです。」つまり「確かに出てきた結果は悪かった。反省はしています。でもオウム真理教というあり方の方向性は間違っていないし、その部分まで全否定する必要は認められないのです」と。

 この意味合いにおいては、彼らにとってオウム真理教というあり方は今でも「通電状態」にあるといってもいいだろう。彼らはオウム真理教が構造的にかなり危険なシステムであるという事実は認識しているし、自分たちがそこでくぐり抜けてきた歳月が多くの矛盾と欠落を含んだものであることも承知している。彼らがその入れ物そのものに再び戻っていく可能性はほとんどないだろう。しかしそれにもかかわらずオウム真理教という理念は、彼らの胸の中では血の通った原理として機能しているし、具体的な理想郷として、光の記憶として、あるいは「刷り込み」として息づいている、そういう印象を私は受けた。そういう意味では、我々の社会にとって今いちばん危険なのはオウム真理教そのものよりは「オウム的なるもの」なのだといっていいかもしれない。

 地下鉄サリン事件が起きて世間の耳目がオウム真理教に集中していたころ、「どうしてこのような高い教育を受けたエリートたちが危険な新興宗教なんかに?」という疑問の声がよく聞かれた。しかし私がオウムの信者、元信者のインタビューを続けていて、その過程で強く実感したのは、あの人たちは「エリートにもかかわらず」ではなく逆に「エリートだからこそ」すっとあっちのほうに行っちゃったんじゃないかということだった。

村上春樹 『神の子どもたちはみな踊る』(新潮文庫)

 p116

 僕たちの寿命と神のいやがらせ

 更年期という問題は、いたずらに寿命をのばしすぎた人類への、神からの皮肉な警告(あるいはいやがらせ)に違いないと、さつきはあらためて思った。
 つい百年ちょっと前まで人間の平均寿命は五十歳にも達していなかったし、月経が終了したあと二十年も三十年も生きるような女は、あくまで例外的なケースだった。卵巣や甲状腺が正常にホルモンを分泌しなくなった肉体を抱えて生きることのわずらわしさとか、閉経後のエストロゲンの減少とアルツハイマー症のあいだに相関関係があるかもしれないとか、そんなことは、さつきにとって特に頭を悩ませるほどの問題ではなかった。つい百年ちょっと前までの大多数の人々にとって、それよりは日々のまともな食事にありつくことのほうがずっとさし迫った案件だったのだ。
 そう考えると結局のところ医学の発達は、人類にとって潜在的なものだった問題をより多く浮上させ、細分化し、複雑化させただけではないのか?

 しかし、医学が寿命をのばしすぎたせいで、死ぬまでに現れてくる問題が複雑化した、そう嘆いてみてもどうにもならない。起きてしまったことは起きてしまったことなのだ。
 たとえば、閉経後のエストロゲンの減少とアルツハイマー症発症は相関しているとわかっても、閉経後に合成エストロゲンを注射すればいいということにはならない。閉経後エストロゲンが減少期にはいると、脳や消化器を含む体内のすべての臓器は波状的に老いに向かう態勢をとりはじめて、初老期の人としてそれなりにバランスがとれた状態になる。そこに短絡的に合成エストロゲンを注射などされれば、全身のホルモンバランスを崩すだけなのだ。アルツハイマー症発症は回避されるかもしれないが、その代わりにどんな異常が顕在化するか、医学はまだ何も解明できていない。
 医学と文学は似ているところがいくつかある。世界を分節的に理解しようとして、あるとき一つの局面の分節に成功できたように思えて微笑むと、世の中それほど甘くない。もう一段難解になった悪魔的な局面がたちどころに現われ、ほくそ笑みながら僕らを待ち受けている。

村上春樹 『東京奇譚集』(新潮文庫)

 p16-7

 人間以外の物事に、人への憎しみはない 

 僕はオカルト的な事象には関心をほとんど持たない人間である。占いに心を惹かれたこともない。わざわざ占い師に手相を見てもらいに行くくらいなら、自分の頭をしぼって何とか問題を解決しようと思う。決して立派な頭ではないのだが、それでもそのほうが話が早いような気がする。
 超能力についても無関心だ。輪廻にも、霊魂にも、虫の知らせにも、テレパシーにも、世界の終末にも正直言って興味はない。全く信じないというのではない。。その手のことがあったって別にかまわないとも思っている。ただ単に個人的な興味が持てないというだけだ。
 しかしそれにもかかわらず、少なからざる数の不可思議な現象が、僕のささやかな人生のところどころに彩りを添えてくれることがある。そのことは認める。でも、その不可思議な現象が僕の人生に変化をもたらしたことはない。僕としてはある思いに打たれるだけだ。こういうことが実際に起こるんだ、と。

 ぼくがハワイのハナレイ・ベイで、プロサーファーのみごとな技を見ていたとき、近くの海岸でサチさんという僕の知り合いの息子さんがサメに襲われて亡くなるということが起きた。ぼくはその葬式にも出たのだが、サカタという地元の初老の警官が事件のあらましを参会者に説明していた。そのサカタ警官が、ぼくが日本のメディアの人間だと勘違いしたせいか、別れ際にぼくに言ってくれたことが心に残った。
 「ここカウアイ島では、自然がしばしば人の命を奪います。ごらんのようにここの自然はまことに美しいものですが、同時に時として荒々しく、致命的なものともなります。私たちはそういう可能性とともに、ここで生活しています。サメに右足を食いちぎられ、ショック症状で突然命を奪われたサチさんの息子さんのことはとてもお気の毒に思います。心から同情します。しかしどうか今回のことで、この私たちの島を恨んだり、憎んだりしないでいただきたいのです。あなたにしてみれば勝手な言い分に聞こえるかもしれません。
 私の母の兄は――幼かった私は優しい彼が大好きでした――1944年にヨーロッパで戦死しました。ドイツ軍の直撃弾にあたって、バラバラな肉片になって亡くなりました。大義がどうであれ、戦争における死は、それぞれの側にある怒りや憎しみによってもたらされたものです。
 でも自然はそうではない。自然の側にはそのようなものはありません。サチさんやあなたにとっては本当につらい体験だと思いますが、できることならそう考えてみてください。サチさんの息子さんは大義や怒りや憎しみなんかとは無縁に、自然の循環の中に戻っていったのだと。私より何年かだけ早く自然の循環の中に戻っていったのだと。」
 この地元の初老の警官の言葉は、土より生まれたものは土にかえるとか、輪廻とかそんな安易ななぐさめよりはずっとぼくの気持ちに溶け込んだ。 僕の妻は数十年前にたまたま運悪く胃の細胞分裂に異常が起こったのだが、つい7年前までそのことに気づかなかった。そして何百人に一人というとてもゆっくりのスピードではあったが、がんは少しずつ増殖してとうとう命を奪ったのだった。いまは人口の半分の人ががんになる。死ぬ少し前「私は何か悪いことをしたのだろうか」と僕に訊いたが、妻は運がなかっただけなのだ。カードゲームでよくないカードを自分で引いてしまったのだ。

 

 

村上春樹 『職業としての小説家』(新潮文庫)3/3

 海外へ積極的に出ていく

 p314-7

 僕の本は、米国とアジア以外の国で、まず火がついたのはロシアと東欧でした。それが徐々に西進し、西欧に移っていきました。1990年代半ばのことです。実に驚くべきことですが、ロシアのベストセラー・リスト10位の半分くらいを僕の本が占めたこともあったと聞いています。
 これはあくまで僕の個人的印象であり、確かな根拠・例証を示せと言われても困るのですが、歴史年表とつきあわせて振り返ると、その国の社会の基盤に何かしら大きな動揺があった後に、そこで僕の本が広く読まれるようになる傾向が世界的に見られたという気がします。
 ロシアや東欧地域で僕の本が急速に売れ始めたのは、共産主義体制の崩壊という巨大な地盤変化の後でした。これまで確固としてゆるぎなく見えた共産党独裁のシステムがあっけなく崩壊し、そのあとに希望と不安をないまぜにした「やわらかなカオス」がひたひたと押し寄せてくる。そのような価値観のシフトする状況にあって、僕の提供する物語が新しい自然なリアリティーのようなものを急速に帯び始めたのではないかと思うのです。
 またベルリンの東西を隔てる壁が劇的に崩壊し、ドイツが統合国家となって少ししたあたりから、僕の小説はドイツでじわじわと読まれるようになったみたいです。そういうのはもちろんただの偶然の一致かもしれません。でも思うのですが、社会基盤・構造の大きな変更が、人々が日常抱いているリアリティーのあり方に強い影響を及ぼし、また改変を要求するというのは当然のことであり、自然な現象です。現実社会のリアリティーと物語のリアリティーは、人の魂の中で(あるいは集団的無意識の中で)避けがたく通底しているものなのです。どのような時代にあっても、大きな事件が起こって社会のリアリティーが大きくシフトするとき、それは物語のリアリティーのシフトを、いわば裏打ちのように要求します。
 物語というのはもともと現実のメタファーとして存在するものですし、人々は変動する周囲の現実のシステムに追いつくために、あるいはそこから振り落とされないために、自らの内なる場所に据えるべき新たな物語=新たなメタファー・システムを必要とします。その、現実社会とメタファーという二つのシステムをうまく連結させることによって、言い換えるなら主観世界と客観世界を行き来させ、相互的にアジャストさせることによって、人々は不確かな現実を何とか受容し、正気を保っていくことができるのです。僕が提供する物語のリアリティーは、そういうアジャストメントの歯車として、たまたまうまく機能したのではないか――そんな気がしないでもありません。繰り返すようですが、もちろんこれは僕の個人的な感想にすぎません。しかしまったく的外れな意見でもないだろうと思っています。
 そう考えれば、日本という社会は、そのような総体的ランドスライド(地滑り)を、欧米社会よりもむしろ早い段階で、ある意味では自明のものとして、自然に柔らかく察知していたのではないかという気もします。僕の小説は欧米よりも早く、日本の一般読者に積極的に受け入れられていたわけですから。それについては中国や韓国や台湾といった東アジアのお隣の国々についても同じことが言えるかもしれません。お隣の国々の読者たちはかなり早い段階から僕の作品を積極的に受け入れ、読んできてくれました。
 しかし、僕の小説に対するアジアの国々と読者の反応と、欧米諸国の読者の反応との間に、少なからぬ相違が見受けられるのも、また確かです。そしてそれは「ランドスライド」に対する認識や対応性の相違に帰するところが大きいのではないかと思います。またさらに言うなら、日本や東アジア諸国においては、ポストモダンに先行してあるべき「モダン」が正確な意味では存在しなかったのではないかと。つまり主観世界と客観世界の分離が、欧米社会ほど論理的に明確ではなかったために、「ランドスライド」に対する集団的無意識の反応も違ってこないわけにはいかないのではと思います。

村上春樹 『職業としての小説家』(新潮文庫)2/3

 小説を書くのはどこまでも個人的でフィジカルな営み

 p193-6

 小説家の基本は物語を語ることです。そして物語を語るというのは、言い換えれば、意識の下部に自ら下っていくということです。心の闇の底に下降していくことです。大きな物語を語ろうとすればするほど、作家はより深いところまで下りていかなくてはなりません。大きなビルを建てようとすれば、基礎の地下部分も深く掘り下げなくてはならないのと同じことです。また密な物語を語ろうとすればするほどその地下の暗闇はますます重く分厚いものになります。
 作家はその地下の暗闇の中から自分に必要なものを――つまり小説にとって必要な養分です――見つけ、それを手に意識の上部領域に戻ってきます。そしてそれを文章という、形と意味を持つものに転換していきます。その暗闇の中には、ときには危険な物事が満ちています。そこに生息するものは往々にして」、様々な形象をとって人を惑わせようとします。また道標もなく地図もありません。迷路のようになっている箇所もあります。地下の洞窟と同じです。油断していると道に迷ってしまいます。そのまま地上に戻れなくなってしまうかもしれません。その闇の中では集合的無意識と個人的無意識が入り混じっています。太古と現代が入り混じっています。僕らはそれを腑分けすることなく持ち帰るわけですが、ある場合には危険な結果を生みかねません。
 そのような深い闇の力に対抗するには、そして様々な危険と日常的に向き合うためには、どうしても単純にフィジカルな強さが必要になります。どの程度必要なのか、数値では示せませんが、少なくとも強くないよりは、強いほうがずっといいはずです。そしてその強さとは、他人と比較してどうこうという強さではなく、自分にとって「必要なだけ」の強さのことです。
 こういう考え方、生き方は、あるいは世間の人々の抱いている一般的な小説家の像にそぐわないかもしれません。僕自身、こんなことを言いながら、だんだん不安に襲われてきます。自堕落な生活を送り、家庭なんか顧みず、奥さんの着物を質に入れて金を作り(ちょっとイメージが古すぎるかな)、ある時は酒におぼれ、女におぼれ、とにかく好き放題なことをして、破綻と混乱の中から文学を生み出す反社会的文士――そんなクラシックな小説家像を、ひょっとして世間の人々はいまだに心の中で期待しているのではないだろうかと。早寝早起きの健康的な生活を送り、日々のジョギングを欠かさず、野菜サラダを作るのが好きで毎日決まった時間だけ書斎にこもって仕事をするような僕なんて、ただ人々の描くロマンチックな小説家イメージにろくでもない水を差して回っているだけではあるまいかと。

 村上春樹がこれほど直接的に深層意識の構造に言及するのを見たのは、ここ以外に記憶がない。村上は以下に示すような井筒俊彦氏の考察を参考にしたのかもしれない(井筒俊彦著『意識と本質』岩波文庫)。
 深層意識はそれ自体多層構造を持っている。現代の言語学は、表層世界の下に潜む「無意識的下部構造」の強力な働きを認める点でユングの分析心理学と一致しており、「深層意識は象徴を構造化する器官なのであって、粗大な物質的世界がここで神話と詩の象徴的世界に変成する」とする。
 深層意識の中層部に「言語アラヤ識領域」がある。意味的「種子」(ビージャ)が「種子」特有の潜勢性において隠在する場所であり、ユングのいわゆる集団的無意識の領域に当たる。
 芸術活動の中で生み出されるシンボルとは、言語アラヤ識領域で生まれた「元型」イマージュがそのまま表層意識の領域に出てきて、そこで記号に結晶したものである。意識の深層が体系的に開かれている人々、しかもこれに積極的意義を認める人々にとっては、「元型」イマージュが描き出す図柄こそ、存在リアリティーの最初の分節構造を露呈するものとなる。ただし、理性的、合理的であることを誇りにする近代人の目には、「想像的」イマージュに由来する言語呪術はただの未開人現象としか映らない。

村上春樹 『回転木馬のデッドヒート』(講談社文庫)

 子供がスポイルされるということはどういうことなのか。それを調べる場合、親が普通の職業についている女の子を調査対象にすると、数が大きすぎるので得られる結論は深度が浅く、女性週刊誌の読者アンケート結果みたいなものになりやすい。

 そこで村上は「有名な高級旅館の娘として親から大事に育て上げられ、周囲の人間もそれに同調するような環境下にあり、その結果取り返しのつかなくなるまでスポイルされた美しい少女ができあがった」という、数は少ないがスポイルのされ方も激しい女の子を例にあげてユニークな結論を導いた。以下の平易な文章はスポイルといううものの本質を衝いたものである。

 p87ー8

 ・・・彼女は小柄でやせていたが、素晴らしく均整のとれた体をしていて、全身にエネルギーがあふれているように見えた。眼がキラキラと輝いていた。唇は強情そうに一直線にしまっていた。そしていつもはいくぶん気むずかしそうな表情を顔に浮かべていたが、ときどきにっこりと微笑むと、彼女のまわりの空気は何かの奇蹟が起こったみたいに一瞬にして和らいだ。
 人から聞いた話だと、彼女には兄が一人いたが、年がずいぶん離れていたので、一人っ子のように大事に育てられた。成績もずっとトップクラスで、おまけに美人だったので、学校ではいつも先生に可愛がられ、同級生には一目置かれる存在だったらしい。彼女から直接聞いたわけではないのでどこまでが本当のことかは不明なわけだが、まあありそうな話だ。

 僕は一目見たときから、彼女が苦手だった。僕は僕なりに、スポイルされることについてはちょっとした権威だったので、彼女がどれくらいスポイルされて育ってきたか手に取るように分かった。甘やかされ、ほめあげられ、保護され、ものを与えられ、、そんなふうにして彼女は大きくなったのだ。でも問題はそれだけではなかった。甘やかされたり小遣い銭を与えられたりという程度のことは子供がスポイルされるための決定的な要因ではない。いちばん重要なことは、まわりの大人たちの成熟し屈曲した様々な種類の感情の放射から、子供を守る責任を誰が引き受けるかということにある。
 誰もがその責任からしりごみしたり、子供に対してみんなが良い顔をしたがるとき、その子供は確実にスポイルされることになる。まるで夏の午後の浜辺で強い紫外線に裸身をさらすように、彼らのやわらかな生まれたばかりのエゴは、とりかえしのつかないまでの損傷を受けることになる。それが結局はいちばんの問題なのだ。甘やかされたりふんだんに金を与えられたりというのは、あくまでそれに付随する副次的な要素に過ぎない。

 

村上春樹 『やがて哀しき外国語』(講談社文庫)

 村上春樹は1991年の初めから2年半、ニュージャージー州プリンストンに住み、プリンストン大学の東洋文学科で、半分研究学生のような半分教員のような生活をしながら、長編小説を書いていたようだ。どの作品か調べればすぐにわかると思うが、それはたぶん『やがて哀しき外国語』には何の関係もないと思うので、ウィキペディアには行かずじまいにしてある。

 このブログでも紹介した『遠い太鼓』がヨーロッパのいろんな国や地域を何日かずつあるいは何週間かかけてうろうろ訪ねながら、行った先で起きた身辺雑事の根っこにあるものを、あまり掘り下げることなく村上春樹の平明・流暢な文体に載せたのに対し、『やがて哀しき外国語』では一つ所に2年半もいたのだから、平明・流暢な文体は相変わらずだけれども、ニュージャージー州の学園都プリンストンがここでは、あとがきの著者の言葉を使えば、旅行者の第一印象を語る望遠レンズではなく、不十分ながらも一応適応した「生活者」の第二印象、第三印象までをカバーする標準レンズの視線で切り取ることが意図されている。

 p46--8 

 大学村スノビズムの興亡

 僕はこのプリンストン大学ではまあゲストのような存在だし、作家ということで大学社会のヒエラルキーからはちょっと外れた存在なので、生活態度が多少ポリティカリーにインコレクトでも「まああの人は作家だから」と許されるところがある。生活態度が(ポリティカリー)コレクトというのは、簡単に言えば「後ろ指をさされない」ということだ。

 でも「これはコレクト、これはインコレクト」という風に考えて暮らしている生活も、思いようによってはなかなか悪くないところがある。特に日本みたいな「何でもあり」の仁義なき流動社会からくると、かえってほっとする部分もなきにしもあらずである。ここプリンストンでは、余計なことを考えずに細かい部分をコレクトにそろえておけば、それで済んでしまうわけだから。「とにかく」NYタイムズを読んでおけばいい。「とにかく」ニューヨーカーを取っておけばいい。「とにかく」ガルシア・マルケスとイシグロとエイミー・タンを読んでおけばいい。「とにかく」オペラを聴いておけばいい。「とにかく」ビールはギネスにしておけばいい。

 ところが日本ではそう簡単にはいかない。たとえばオペラなんて流行じゃないよ。今はもう歌舞伎だよ、という風になってしまう。情報が咀嚼に先行し、感覚が認識に先行し、批評が創造に先行している。それが悪いとは言わないけれど、正直言って疲れる。そういう風に神経症的に生きている人々の姿を遠くから見ているだけでもけっこう疲れる。これはまったくのところ文化的焼き畑農業ではないか。やられずに生き残ることだけを念頭に置いて、あるいはただ単に傍目によく映ることだけを考えて活動し生きていかなくてはならない。これを文化的消耗と言わずしていったい何と言えばいいのか。

 そういうことを考えると、保守的だろうが、制度的だろうが、階級的だろうが、このプリンストン村みたいに「とにかくここはこうしていけば」というのがあれば、日本の文化人だってずいぶん楽だろうにと思う。LAで何が流行っていようが、NYで何が流行っていようが、ここプリンストン村では普通の人はあまり気にもしていない。そういう流動性、感覚性を黙殺し、淡々と我が道を行くという部分が社会にはある程度必要なんじゃないかという気がする。