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養老孟司

養老孟司 『考えるヒト』(ちくま文庫)

主著『唯脳論』の続編ともいえる難しい内容を持つ。養老さん自身が自分の一生のテーマであると言っている「意識」について、専門性と総合性をともに備えた、深くて広い思考の先端部分が示されている。 ただし、いつもの養老さんのように、この本でもアタマの…

養老孟司 『遺言』(新潮新書)2/2

ヒトとハチは同じことをしていないか p126-7 共有空間が成立するのはヒトの場合だけではない。アリ、ハチ、シロアリのような社会性昆虫も機能的な共有空間をつくる。ただしそれは概念的な共有空間ではないはずである。一定のやり方で次々に部分をつくって行…

養老孟司 『遺言』(新潮新書)1/2

意味のないものにはどういう意味があるか p36-7 雑草とは何か。そんなものは植えた覚えがない草のことを、雑草という。植えなかった理由は、その人にとって意味がないからである。サラダにするわけでもないし、野菜炒めにするわけでもない。それなら引っこ…

養老孟司 『からだを読む』(ちくま新書)

解剖学者・養老孟司が専門家として書いた、口から肛門までの消化管についての「人体構成解説書」。百科全書の「消化管篇」としてだけ読んでも面白いし、楽しいし、身内に癌になった人でもいれば、綜合内科医的な視野の広い知識も得られる。 解剖学では、ヒト…

養老孟司 『からだの見方』(ちくま文庫)

医学における「知」 p106−7 痴呆症が問題になっているのは、世の中が面倒になって、ボケると他人の迷惑になるからである。特に、対人関係がどうしようもなくなる。家族や近しい人たちは健康なときの印象があるから、病人を病人として扱えないことが多い。人…

養老孟司 『脳と魂』(ちくま文庫)

養老孟司と(少々胡散臭い感じがする)臨済宗の僧侶で小説家でもある玄侑宗久の対談本。脳を含む身体の、部品の集合ではない生物のシステム性について、リアリティのある議論がされているが、全体をリードするのは圧倒的に養老孟司である。養老孟司の世界認…

養老孟司 『無思想の発見』(ちくま新書)2/2

「私は無思想」という強力な思想 p95 「俺は思想なんて持ってない」という思想は、欠点が見えにくい思想である。そもそも「思想だなどと夢にも思っていない」んだから、他人の批判を聞き入れる必要がないし、訂正する必要もない。じつになんとも手間が省け…

養老孟司 『無思想の発見』(ちくま新書)1/2

日本人の「私」は、個人ではなく「家」の構成員である p21・26・31 「個人は社会を構成する最小単位であり、その内部が私である」とされる。ところが日本の世間ではそうではない。日本語では「私」という言葉が、「個人」SELFという意味と、「公私の別…

養老孟司 『大言論 Ⅲ 大切なことは言葉にならない』(新潮社)

国家も新聞も「約束事」の言葉の上に成り立つ 2008年から2010年まで季刊誌『考える人』に連載されたものをまとめたもので、『大言論』というおふざけタイトルの付いたシリーズの最終巻。養老さんは初出の最終稿を書いていたとき72歳になっていた。いろいろな…

養老孟司 『講演集 手入れという思想』(新潮文庫)3/3

日本の「世間」というものの特異さ p268−9 私は死体を扱う仕事を長年やっていますので、目の前に横たわるこの人は日本の世間のどこにいた人なのだろうと時々考えてきました。日本全体という大きな世間をとりますと、まず第一に、そこに入れてもらうのは場合…

養老孟司 『講演集 手入れという思想』(新潮文庫)2/3

脳の男女差 p93−5 右脳は絵画脳、音楽脳で左脳は言葉の脳であるとよく言われます。絵画脳とは、主として空間認知をあつかう脳ということです。空間認知というのは、われわれがものがどこにあるか、物と物の位置関係がどうなっているかを把握することで、ふ…

養老孟司 『講演集 手入れという思想』(新潮文庫)1/3

安全が、ただいまの学生の行動原則らしい p62−5 東大をやめてから、いろいろな大学の大学院で講義をしています。オウム事件以来若い人たちのものの考え方に興味をもちまして、そばまで行っていろいろ学生に聞くわけです。大学院だと講座の定員は3,40人くら…

養老孟司  『大言論Ⅱ』(新潮文庫)2/2

石油が維持する世界秩序 P179-83 2003年のイラク戦争のとき、イラクの内政なんてアメリカには実はどうでもいいことだった。というより、もともとアメリカがどうこうするという問題ではない。とりあえず「イラクに民主主義を」と言っておけば済む、合衆国政府…

養老孟司  『大言論Ⅱ』(新潮文庫)1/2

西欧市民社会の「個人」に対応するものは日本の「家制度」である p27 「遅れた」日本には近代的自我が育たなかった、というのが私(養老)が受けてきた教育だった。しかし、例えば18−19世紀の日本は同時代のヨーロッパに少しも劣らない文明化された社会だっ…

養老孟司 『解剖学教室へようこそ』(ちくま文庫)

高校生向きに書かれたという解剖学の小論。しかし、独特の論理的飛躍がある養老さんの文章は――それは、あえて言えば禅坊主の公案にさえ似ているところがある。順接の接続語が逆接の意味になっていることもある。何冊か読んで養老さんのクセに慣れないと??…

養老孟司  『大言論Ⅰ』(新潮文庫)

東大と京大 東大に勤めていたころ、京大の学生に何度か講義をしたことがある。話すのが大変楽だったという覚えがある。私はやや変なことを言うから、官僚になって出世することばかりばかり考えている東大の学生には気を遣った。 東大長男論というのがあった…

養老孟司 『超バカの壁』(新潮新書)

●自分探しの結果、「天職」が見つからなくなった 自分固有の魂があって、身体はその魂に「場所」を提供しているだけだというのは西洋的な考え方です。日本の哲学者の書いた本には、調べた限りでは見当たりません。 「自分に合った仕事」を、目にクマを作って…

 養老孟司 『バカの壁』(新潮新書)

10年前、発行と同時に大ベストセラーになり、今年で104刷を数える、誰でも知っている本だ。この本を書店で手に取った人たちは、『バカの壁』という変わった書名は毒舌家の養老先生だから、やれ「個性」だ、「健康」だ、「自然」だと吹いて回るマスメディアや…

養老孟司 『身体の文学史』(新潮選書)

養老孟司によれば、私たちが「身体性」を急速に喪失したのは江戸時代以降のことである。つまり「脳化社会」が始まったのは江戸時代からである。 中世までは、すべての情報の入力・出力は身体を通してのものであった。生きることだけでなく死も、手で触れ、悲…

養老孟司 『人間科学講義』 ちくま学芸文庫3/3

●シンボルと共通了解 p188 ヒト社会で、いったん言葉などのシンボル体系が採用されると、それを了解しない個体は徹底して排除されたはずである。進化史上、その状況が脳にかけられた強い選択圧だったと思われる。言語は脳に特定の論理構造を与えてしまうか…

養老孟司 『人間科学講義』 ちくま学芸文庫2/3

●おなじものの二つの世界 p65 DNAは「物質である」。と同時に、「情報としてはたらく」。DNAの分子構造の決定とそれに続く遺伝情報の翻訳機構の解明によって、この奇妙な現象の意味が明らかにされた。 たえず変化する「生きているシステム」の中で、…

養老孟司 『人間科学講義』 ちくま学芸文庫1/3

●人間科学とはなにか p13 われわれは「世界はこういうものだ」と信じているが、それは脳がそう信じているだけである。しかしそうだとわかったからと言って、事情がさして変化するわけではない。 が、脳がそう信じているだけだということを知ることはそれで…

養老孟司 「カミとヒトの解剖学」(ちくま学芸文庫)5/5

ハイテクが変えた人間 p214 人工臓器を洗練していったとしよう。とことん最後に、どうなるか。おそらく、いまの健康な人間並みの機械ができあがるだろう。それなら、いまの人間ではなぜいけないのか。 病気になる、最後に死ぬ、それが人間の欠点だ。そうい…

養老孟司 「カミとヒトの解剖学」(ちくま学芸文庫)4/5

「浄土」の見方 p181-98 人間の考えることは、論理的にはすべて脳の機能に還元される。しかし、ある人が「何を」考えているか、その詳細はとうていわからない。 たとえば、下は中沢新一氏のきわめて難解な「極楽論」の一節である。我慢して数行だけ読んでほ…

養老孟司 「カミとヒトの解剖学」(ちくま学芸文庫)3/5

「霊魂」の解剖学 p143 自然である身体には男女の差がある。男女の扱いに、社会においてかならず差異が発生するのは、差別ではない。(「常識」とは逆に)自然がおいた差異をなんとか統御しようとする脳の努力の反映である。 したがって社会は自然の男女差…

養老孟司 「カミとヒトの解剖学」(ちくま学芸文庫)2/5

「死」の解剖学 p80-1 脳死を仮に死であると定義して、わたしは植物状態と脳死の間に線を引かない。わたしが植物状態になって数年経てば、家族の状態はまったく変わる。わたしは仕事をクビになり、ローンを支払わねばならず、医療費も支払わねばならない。…

養老孟司 「カミとヒトの解剖学」(ちくま学芸文庫)1/5

宗教体験 p18 脳がある体験をすることと、外界にその対応物が存在することは、別なことである。宗教方面の少し高徳なあたりでは、時々これを一緒にすることがあるので、困る。比叡山を千回走り回ると、その僧の内部では何らかの世界解釈が変わるであろうが…

養老孟司 「唯脳論」 2

p168 日本人にとって漢字は視覚にパッと訴えて理解させる言葉であり、カナは音声で以て順々に聴覚に訴えて理解させる言葉である。すなわち日本人は、漢字と仮名の皮質での処理部位が異なっているのだろう。たとえば、「角回」すなわち視覚言語に関わる中枢…

養老孟司 「唯脳論」 1

ペーパーバックを書きすぎとも言われる養老孟司氏の主著。脳の『機能』が、神経系構成物質の三次元の『構造』そのものであり、それ以上でも以下でもないことを明快に説く。 ある物質がある構造をとれば、その物質はその構造に見合った機能を 「持たざるを得…

養老孟司 「脳のシワ」 

p180-2 聴覚系の脳はしばしば論理的である。視覚系の脳はその逆である。論理とは耳のものなのだ。目は「パッと見てとる」もので、目に理屈はじつはない。理屈はじゅんじゅんに説くもので、それは耳が得意なのである。論理は言葉によって尽くされるしかなく…