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オルハン・パムク 「雪」

 五百六十ページでおそらく五十箇所以上の誤植あるいは校訂ミスまたは誤訳がある。稚拙と酷評される和久井路子の訳だが、詩人パムクの筆力は宗教イスラーム・政治イスラームとトルコ的近代主義の激しい確執、Kaとイペッキ、カディフェ、紺青の四つ巴の恋を輻湊する文体で描いて、彼女と藤原書店の惨めさを救うかのようである。

 ヨーロッパに占めるトルコの複雑さをこれほど理解させる「政治的メッセージのない政治小説」もない。
 民は、自分たちが「市民」になる条件を生活の根本で禁止するイスラム戒律に自足しながら、貧しさをもたらした西欧を憎悪する。神へのかかわりの誇りに満たされながら、現実の貧しさに絶望する。単なる富を「価値」に転換したキリスト教への侮蔑は限界を知らず、神との結びつきの強さが貧しさの原点であることが、ムスリムとしての集団的理解に育たない。
 9.11のテロは兄弟民族千年の争いのたった一つのあらわれにすぎない。 主人公Kaによれば、「遠くから見ると、互いに似ている人間が、本当はどんなに違っていて、理解できない奇妙な存在であるかは、一つとして同じものはない雪の結晶を解明することによって、誰もが証明できるのであった。」(p498)「人生の論理を解くことができる隠れた幾何学がある」というが、その幾何学が謎に満ちたものであることだけは隠しようがない。

 言語の構造とはおそらく関係のない、パムクの文体の一例。「Kaはイペッキとカルス川に立つもやについて話をしていたが、イペッキが紺青と四年前同じ場所で抱き合っていたのを知っていたので、紺青がもやについてどのように言ったかを聞いてもそれはもやだけのことではなく、同じ場所での抱擁についての嫉妬だととられ、イペッキもまたその間で揺れるのが分かっており、それはかえって紺青を思い出させるだけに過ぎないので、とりあえずはもやの水滴にもアラーが見えるのだろうかというにとどめた。」胃潰瘍で死んだ漱石の「明暗」の重苦しさを何度か思い出した。


登場人物
 ・Ka 主人公 42歳の詩人 以前イスタンブールで出していた左翼系の新聞に載せた他人が書いた記事の責任を問われて有罪になり、ハンブルクに逃れて12年間亡命していた。母親の葬式に間に合うべくイスタンブルに戻ったが、そこで昔の学生運動の仲間からアルメニア国境のカルスで共和国派、イスラーム原理主義、穏健イスラーム主義らによる市長選挙があり、また若い女性モスリムの自殺が続いていると教えられ、取材の仕事を引き受けることになる。
 Kaは、カルス行きを引き受けた本当の理由が、昔の学生運動でKaだけに微妙な心の動きがあった美人のイペッキが、同じく学生運動仲間のムフタルと離婚してカルスに住んでいるからだということがわかっている。しかし、あまり多くはない恋愛経験がいずれも苦悩と恥辱を思い出させたことから、イペッキと再会して恋に陥ることを死ぬほど恐れている。フランクフルトにいるとき、五分か十分ごとに、遠くを歩いている女を「イペッキでは?」と思ったほどだった。

 ・イペッキ Kaの学生運動仲間で非常な美人。 ムフタルと離婚後、父、妹とカルスの「雪宮殿」ホテルを経営し、ホテル内に住んでいる。Kaのことを嫌っているのではないが、Kaのように心を燃やしているわけではない。ムフタルと結婚中、子供ができないためにムフタルにつらく当たられたこともあって、紺青の英雄的な資質にひかれて深い関係にあった。
 紺青は妹のカディフェとも恋仲であり、こちらのほうは父親だけが知らない(ふりをしている)公然の関係である。イペッキはこの面では妹に敗北しているわけで、雪がとけ道が開通したらフランクフルトで暮らそうとのKaの申し出を受けいれたのも、紺青をあきらめきれないため。紺青はKaのカルス到着後も、カディフェとイペッキ双方を操っている。
 作者は一箇所だけ、イペッキのことを、一生カルスの田舎町から出たことがないため「貧者のようにパンを厚く切り、しかも最悪なことにそれをピラミッドの形に盛る」とKaに蔑ませている。
 最後半部で、Kaが西欧と紺青の「二重スパイ」らしく、政治イスラームの紺青を暴力的民兵のデミルコルに売ったとして、イペッキは激しく怒りフランクフルト行きをキャンセルする。このことが4年後のKaのフランクフルト市内での暗殺につながってゆく。狙撃を許したのはイペッキかもしれない。

 ・トゥルグット イペッキとカディフェの父親。トルコ流「モダン」を愛する心優しい元コミュニスト。共和主義者、コミュニスト、国家情報局、イスラーム主義の四つ巴のカオスの中で、若いときの理想がなんら実現しなかった自責と屈辱、そして眼前の恐怖のためにホテルからほとんど一歩も出ない。カディフェが髪を出そうとしないことに自分の政治的立場としては異論があるが、髪を出すことで宗教高校生たちから彼女が論難され、危険に陥ることにも父として耐えられない。欧米小説によく出てくる優柔不断紳士の典型。劇場のカディフェに危険が迫り、駆けつけなければならないときにもネクタイの柄と締め方に数分を費やしてしまう。

 ・セルダル 150部を売る地方紙「国境の町新聞」の発行者兼記者。四つ巴の陣営のどちらにもつく、重要な犬的存在。カルスの権力の風向きを天才的に読み、翌日の予定記事を「過去形で」書く。Kaがカルスで最初の詩「雪」を国民劇場で朗読すると発表したときも、はじめKaは詩を書いてさえいなかったのに、紺青とはじめて会い彼の並外れたオーラに圧倒されたあと、ホテルで34行の詩を一瞬のうちに書いてしまう。セルダルはそのKaと紺青の存在的力量の差を一瞬で読み取り、予言してしまう。
 
 ・紺青 イスラーム主義者を組織するカリスマ指導者。とても深い美しい紺色の目をしている。Kaがカルスに来る以前からイペッキ・カディフェの姉妹を性的に操っている。イペッキは「子供が生まれない」と身辺雑事に文句を言うム夫フタルにない「純粋な男」を紺青に感じて、カディフェは「遅れているイスラーム世界に西のデモクラシー・自由・人権を猿のように真似」させまいとする英雄性に感じて、残酷な彼の世界に引きずり込まれる。
 紺青たちがここで彼らの神とこれほど強く結ばれている理由は、「西の人々が考えているように、彼らがかくも貧しいことではなくて、なぜこの世にいるのか、そしてあの世でどうなるかに誰よりも関心を持っているからだ」