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夏目漱石 「草枕」

 p58
 蚤の国が厭になったって、蚊の国へ引越しちゃ、何にもなりません。
 漱石はやはり大家である。猫、坊ちゃんから草枕のころまで、いったん書き始めたらほとんど書き損じて渋滞することはなかったらしいことを、後年鏡子夫人が関係者に述べている。昼も夜もあふれ出る楽想に追いまくられ、収拾をつけるために奇行をくりかえしたモーツァルトの天才と、そこは同じだったのだろう。
 身辺は書かず、エピソードにおいて作者の迷いと想いを厚くしながらも、納得の行くプロットで読者に疑念を与えない。しかもその迷いと想いに、強要する感じをいだかせない。
 第二主人公の那美さんは三分の一ほど狂っているかもしれない。しかしそれはたとえば「雪」のイペッキもそうなので、「モダンな父親に育てられ」、「男によって語尾の上げ方が変わる女になり」、「凶暴なムスリムに惚れた」彼女は狂わないはずがない。那美さんは、蚤と蚊が絶えることない世の中で、自分の矜持に正しく生きようとすれば「狂って」見えることを引き受けざるをえない、と読者に感得させる。