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丸山真男 「歴史意識の古層」±α 1

 [つぎつぎに]

 よくもあれだけ厚顔無恥にと感心する道路の掘り返しを身近な例として、その経済効率の悪さが指摘されながら、愚劣な公共事業が少しもなくならない。私たちは頭が悪いんです、計画性がないのですと自白しているようなものなのに、公共事業の「つぎつぎの、なりゆきとしての、いきおい」は絶対に止まらない。この前の戦争が、国民の大多数が好戦的ではないにもかかわらず、止められなかったように。
 東京裁判で「われわれは個人として、戦争拡大を望んでいなかった、突入は「時勢の赴くところ」であった」と異口同音で申し立てるA級戦犯どもの、礼儀正しく真摯な表情を見て、戦勝国検事の困惑は深かったに違いない。あの戦争が日本人の、上代よりいまも続く価値観もしくは歴史意識を貫く執拗低音としての「つぎつぎの、なりゆきとしての、いきおい」の結果などとは、ヒトラーよりやや矮小な悪魔を一刀両断に裁くつもりで乗り込んできた、彼の理解の範囲をはるかに超えていた。

 世界の神話の宇宙創世論の発想の基底には三つの基本動詞があるという。「つくる」と「うむ」と「なる」である。「つくる」と「うむ」は他動詞だから、当然ある特定の人格がその行為の背景にある。これに対して「なる」は自動詞だから、必ずしも人格はその命題に必要ではない。 
 具体的には、ユダヤ=キリスト=イスラム教系列の旧約聖書が「つくる」を基本動詞とする世界創造神話の典型であり、よく知られるようにわれわれの住む世界と万物は人格的創造者によって一定の目的でつくられた。
 つくるものとつくられるものは、主体と客体としてまったく非連続であり、被造物としてのわれわれと、時間を超越した人格神との間には無限の距離がある。
 ちょうど対蹠的なのが日本神話であって、秋になると植物の実がなるように「なる」のイメージの磁力が強く、世界はそこに「内在する」神秘的な霊力(たとえばメラネシア神話でいうmana)の作用で表面に現れた。古事記で登場する神々のうち、世界創世に関してもっとも重要な役割を果たすのはムスヒの二神、とくに高御産巣日神(タカミムスヒノミコト)であるが、ムスヒのムスは「千代に八千代に苔むす」のムスであり、ヒが霊力を表現する。 この生長・生成の霊力の発動と顕現を通じ、泥・土・植物の芽など国土の構成要素と男女の身体の部分が「いつのまにかつぎつぎとなっ」て、イザギ・イザナミの出現で神話は一段落する。
 つまり神話という歴史意識の最古層の産物の中では、植物のおのずからなる発芽・生長・増殖のイメージとしての「なる」が、人間世界にも浸透しているのであって、植物世界と人間世界は非常に単純なパラレル関係にある。こうしたイメージの枠組みの中では、あくまで個人が責任をもつ行為の総体としての歴史、という意識は生まれようがなく、あらゆる歴史の認識は、神秘的な霊力によって「豊葦原につぎになりゆく稲穂のいきおい」に代表される生長・増殖のオプティミズムにとって代わられてしまう。
 仏教伝来後、聖徳太子はその教理の深奥に通じた、おそらく最初の日本人であった。仏教は当時最有力の世界宗教であり、無限の時空を隔てた「絶対」の存在が、論理の中心にきちんと措定されていた。歴史は植物の生長・増殖になぞらえるべきものではなく、霊力のない自覚的個人の行為の所産であることを饒舌に説いている。ひとの行為が自覚的であるのだから、善も悪も確かに存在するのであって、それゆえに悪は厳しく戒めなければならない。
 その当時、蘇我馬子崇峻天皇を殺害するという「天地の大変」が生じた。そして聖徳太子はこれを傍観していたのである。悪は厳しく戒められず、三宝への帰依を説く高徳のインテリ・聖徳太子は「つぎつぎに生まれる、政治力学のなりゆきとしての、ときのいきおい」に埋没してしまった。
 われわれの歴史意識を貫く低音はいかにも執拗である。大脳表皮の世界宗教の認識論などは、脳幹の亜熱帯雨林のような発熱の前にはひとたまりもない。
 日本書紀の冒頭では、最初に神と「なった」国常立尊につづいて「次に○○のミコト、次に△△のミコト、次に……」と、一連の神々の誕生が、読むものに煩わしいまでに告げられている。記述言語として圧倒的に優れていることを理由に、自国の青史に漢文を採用し、なかなかのスタイリストであった編纂者が、どう見ても不細工な「次に誰々……次に誰々……次に誰々……」という文章を並べながら宇宙と神々の発生を述べねばならなかったのは何故なのか。
 ここにはやはり、世界を、はじめに摂理ありきの演繹法でなく、時間を追っての連続的展開というタームで語る、即物的発想の根強さを見ないわけにはゆかない。
 「なる」が「なりゆく」として固有の歴史範疇に発展するように、「つぎ」は「つぎつぎ」として固有の歴史範疇を形成する。そうして「なる」と「つぎ」との歴史範疇への発展とともに、両者の間に生まれる親和性を何よりも象徴的に表現するのが、血統の連続的な増殖過程にほかならない。
 「いやつぎつぎに」というのは、周知のように宣命のなかで「天つ日嗣高御座」の血統的連続性をたたえる決まり文句だが、この「連続性」が時間的「無窮性」に転換するまでは、ほんの半歩しか要しない。そして重要なのは、宣命のなかでこそ「いやつぎつぎに」は「天つ日嗣」への賛歌であるが、それがやがて摂関・武将の家の血統第一主義から、江戸時代に始まり現在も続いている芸能・商売の「家元」制度(親子二代、三代のテレビタレントがなんと増えてきたことか)にまで一般化されてしまうことに、われわれの意識の隠れた根元にひそみ、エポックのたびに顔を出す価値体系を垣間みることができる。
 宗教的な超越者にも、自然法的な普遍者にもなじみにくい日本のカルチャーにおいて、「つぎつぎ」の血統の無窮性は、「まことに万世もつきまじき御世の栄え、つぎつぎ今よりいと頼もしげにぞ見せさせ給う」(大鏡)というように、万世という表象と結びつくことによって、小学生にもわかる「永遠者」の観念に代位する役割をいとなんだのであった。