アクセス数:アクセスカウンター

ハナ・アーレント 「全体主義の起源」第三巻「全体主義」 2

 p90−94
 <シオンの賢者の議定書>というユダヤ人賛嘆の奇妙な文書がある。第一次大戦後ドイツで数十万部も刷られた。世界帝国の設立を考え、特定の国の革命については決して語らない。政治概念の中心にすえられているのは「民族」であり、人口では弱体で領土も国家も持たないユダヤ人が、優れた組織の奇跡のみによって世界を征服できるとする。
 天才的デマゴーグだったヒトラーはこれを「暗誦するまで学んだ」。そして、いわば主語をそっくり入れ替えて、最初にユダヤ人の正体を見抜いて戦った(アーリア)民族がユダヤ人が狙う世界支配の地位を引き継ぐとした。
 p96
 全体主義の指導者の手腕とは、経験可能な現実の中から彼のフィクションにふさわしい要素を探し出し、それを検証不可能な領域に持ち込んで利用する技である。ユダヤ人の世界陰謀神話、トロツキストの反ソ陰謀神話が潰えなかったのは、それが検証不可能であるからに他ならない。
 p100
 シンパサイザーを党の「外皮」に置く「ファサード構造」こそ、全体主義の本質的に新しい独創的な組織方法である。この発明に比べれば、通常典型的に全体主義的なものとされているすべての幹部の上からの任命、一人の人間による任命権の独占などは、二義的な意味しか持たない。
 p106
 シンパは外界の「正常」な俗物性に取り囲まれ、「愚者の楽園に生きている」。党員はそのシンパの「正常」な俗物性に取り囲まれ、精鋭組織はその党員の「正常」な俗物性に取り囲まれているから、彼らはいずれも外側の社会の直接の衝撃にさらされることがない。そしてこういった多層的なパターンは、無限に拡大再生産可能である。
 根無し草と化し、悲惨な現状の存続を何よりも恐れている大衆の組織が長年にわたって過激であり続けられたのには、この、ナチにもボルシェビズムにも(かつての紅衛兵にもいまの北朝鮮にも)共通の理由がある。
 p113
 運動の指導者はもともと非全体主義的な環境に育ち、大衆の秘められた願望をよく知っていたから、法の曲解者たる法律家、殺人者たる医師、智慧なき人間たる学者という、外部世界の職業団体を辱めた擬制職業団体の戯画の背後には、法を破り、人を殺し、学問を世の中から放逐したいという願望がひそんでいることを、非常によく理解していた。
 p129
 自分たちの咎ではない方向喪失と崩壊に耐えかねて全体主義に入って行った大衆にとって、「仲間に入っていないものはすべて排除される」という、「われわれ」とその他一切を分ける二分法の主張は、まさに慰めと希望を与えてくるものだった。
 p131
 運動内では(あらゆるものの相対化である)軽信とシニシズム同居していた。絶えず変化し理解しがたくなってゆく世界にあって、何事をもすぐに信じ、しかし同時に何事をも信じず、一切が可能だと考えると同時に何ものも真実ではないと確信する。
 全体主義ヒエラルヒーにおいては、高い階層ほどシニシズムの割合が高くなる。高い階層は、ヒトラーの法の遵守宣誓を聞いたとき、それが偽誓であることを知っており、世論と国家機関を愚弄する能力を持っているのを見て彼への信頼をいっそう高めたのである。
 p134−6
 党員は実際問題に関する外界向けの公式発表をいっさい信じないが、過去から数千年の未来にわたる歴史の包括的説明と、似非科学人種理論によるユダヤ人の世界支配陰謀、普遍階級理論によるウォール街資本家の世界支配陰謀といったステレオタイプイデオロギーは固く信じている。
 精鋭部隊となると、彼らはこのような証明さえ必要としない。ユダヤ人の劣等性は証明される必要はなく、劣等=絶滅の意思表明があるだけである。否定的特質を本質として持つ彼らは、嘘と現実を比較してみることさえしない。指導者が窮極の護符としてイデオロギーの最終的勝利を保証しているからである。
 p139
 全体主義ヒエラルヒーの最中心部の人間たちの指導者に対する無条件の忠誠の深奥には「不遜」がある。彼らは世界陰謀なるものを組織のための手段としてだけ利用したが、不遜にも、自分たちの陰謀が実際に非全体主義世界を結束させうることを忘れていた。
 p145−7
 全体主義権力者は、一方では彼が発案した擬制的世界を日常生活全体を支配する現実として確立しなければならず、他方ではこの新しい革命的世界が安定してしまうことを妨げなければならない。
 この矛盾を解決するのは、SS隊員さえ例外としなかったような厳しくなりまさる人種的選別基準、SAからSSへ、一般SSから行動部隊、髑髏隊へといった権力中枢の絶えざる移動などの「永久革命」だけである。
 しかし全体主義体制にとっては、この永久革命の「一時的成就」は好ましからぬ事態である。運動を下支えした大衆の怨念(ルサンチマン)はもはや存在せず、以前の惰性的人間に戻ってしまう。
 これを防ぐものこそ、公式な、国際的に承認された司令部の創立であり、端的に言えば秘密警察機構の支配である。従来の国家機構は事実上死滅し、秘密警察機構の一種の実験室のようなものとなる。完全な設備を持つ実験室のなかで、あらゆるリアリティを擬制に転化する政治実験が遂行された。
 p172
 全体主義的支配にとっては、参加者の誰にもどんな連帯感も生じないことが必須条件だった。連帯が生じた瞬間に、参加者は方向性を持たないアトムではなくなり、ある構造をもってしまうからである。すべての階層の成員が方向性を持たないアトムであり、運動が無構造であるからこそ、彼らの政治体制は一切の動揺を免れたのである。
 個人としてのヒトラースターリンが個人として途方もなく不正直だったことで、「徒党」であれ「ギャング」であれ、無構造集団に連帯は決して生まれなかった
 p180
 (従来の政治権力によって)全体主義的支配がこれまで歴史上一度も試みられたことがないのは、彼らが「権力とは機能連関のことに過ぎない」と気づかなかったためである。
 全体主義的支配とは、経済・民族・軍事・あるいは個人的なものであれ、何らかの利益の徹底的追求なのではなく、見通せないほど遠い未来に純粋に擬制的な世界を作り上げようとする試みなのだ。だから、従来の権力概念のような側からは全てが理解しがたいし、「運動」指導者たちは政権掌握後も決して軟化することがない。