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丸山真男 「歴史意識の古層」±α 2

 [いきおい]
 「いきおい」という大和言葉と対応する漢語はふつう、勢、権勢、威などの語である。しかし「いきおい」にはもう一つ、(我々がふつうに使う用法での)「徳」という意味があった時代があり、日本の価値意識がよく示されている。日本書紀で「天皇の徳」は通例「すめらみことのいきおい」と読まれるが、こうした例は中国古典にはない。
 日本書紀の「雄略紀」で雄略二年、当時まことに「いきおい」のあった独裁者・雄略天皇は、多くの人々を殺害したとして「天下誹謗言、大悪天皇也」とされながら、直後の雄略四年の記述では「有徳天皇也」と評されている。中国青史における人物描写の表現で「大悪」にして「有徳」というような規定はおよそ考えられず、紀編纂者がエリートとして儒教的規範観念を熟知していただけに、この「有徳」なる言葉は儒教本来の倫理的規範性からは遠いと解するほかはない。単純化していうならば、ここでは「徳」があるから「いきおい」があるのでなくて、逆に「いきおい」があるものに対する賛辞が「徳」なのである。
 この場合の「時」とは大きな「時代の潮流」でもいいし、会社の役員会での「雰囲気」でもいい。潮流や雰囲気を自分の側に引き寄せたものは、たいていの抵抗を排除することができるし、逆のサイドに立ったものは、有効なカウンター攻撃をなし得ぬまま葬り去られてしまう。ほとんど「宿命」にちかいニュアンスを「時の勢い」は持っている。
 半世紀前、「時の勢い」の盛りにあったのは戦争指導者だった。しかし驚くべきことに彼らは、参謀本部将官はもちろん軍事内閣の主要閣僚ですら、直接権限外のことは下位の者に対しても希望を表明するにとどまる小心な官僚だったのであり、自分という個人が戦争遂行に対して責任があるとの自覚をほとんど持っていなかった。その10年後東京裁判の被告席にたたされた彼らは、米国人検事をあきれさせる無責任答弁をえんえんと繰り返しすことになる。
 彼らに言わせれば、陸軍大臣等の主要閣僚も、重要事項を決定するには他の一般閣僚の承認なくしては無力であった。いっぽう一般閣僚はといえば、その重要事項を承認したとしても、それは陸軍大臣等の主要閣僚の専門的見解にもとづいてこれを承認したまでだということで、自分たちは責めを問われるべきではないと主張しているのである。
 なかでもこのからくりのために百パーセント利用されたのが、旧憲法の規定する統帥大権と編成大権の区別のあいまいさだった。東京裁判では軍政系統の陸軍大臣--軍務局という系列と、作戦用兵を司る参謀総長--参謀本部各課という系列が、たがいに他に責任をなすりあうみっともない場面がしばしばみられた。
 とくに国防計画の決定や現地での戦争拡大に関する責任が時の(編成大権側の)陸軍大臣に対して追及されると、きまってそれは(統帥大権側の)参謀総長--参謀本部の専管事項であるとの言い訳がされた。ところが参謀総長--参謀本部側に言わせれば「一国の作戦計画はその国の国策にもとづいて作られるものである。そして国防政策は陸軍省の立案するものであり、参謀総長は用兵に関する責任者でしかあり得ない」ということで、結局責任主体が宙に浮いてしまうことになる。
 満州事変の張作霖爆死事件は、明確にある部隊の陰謀であり、部隊長の氏名も明らかになっている。師団長は「その陰謀のあることを知らなかった」ゆえに無実なのではなく、部下を把握していなかったことは前線指揮官として失格なのであって、極刑に値する。(統帥大権側の)参謀総長--参謀本部も無能な指揮官を把握していなかったゆえに同罪であり、無茶な国策にもとづく作戦計画をたてた(編成大権側の)陸軍大臣も同じだろう。
 挙国一致と一億一心が狂熱的に怒号されるに比例して、舞台裏での支配権力間の横の分裂は激化していった。文官と武官、陸軍と海軍、陸軍内でも陸軍省参謀本部陸軍省内でも軍務局と兵務局というごとく。内務官僚、満州官僚相互の抗争もよく知られている。そうしてこのような政治権力の多元性を最後に統合すべき地位に立っていた天皇は、事態が末期的様相を示せば示すほど「臣下と同じように」立憲君主の「法的権限」をひたすら固く守って、「臣下に対して希望を表明するにとどまり」、敗戦の土壇場までなんら主体的な「聖断」を下さなかった。
 かくして日本帝国は、崩壊のその日まで内部的に悩み抜く運命をもった。それはむろん一つには天皇の弱い性格の故もあるし、敗戦よりも革命を恐れ、階級闘争よりも対外戦争を選んだ側近達の補弼も与って力があるだろう。
 ただ私たちの親の世代が宿命として恐れた「時の勢い」を体現した最高指導者たちが、こぞって「無責任」の宇宙をすみかとした、「徳」とは無縁のものたちだったことは、私たちの親たちにとって例えようのない不幸であった。
 以上は半世紀前の話ではない。戦争を国際企業間競争に置き換えるだけでいい。新興アジアの企業に押され続け、内部留保だけを増やし続け、守りに終始するサラリーマン役員の無責任宇宙はすこしも変わっていない。トップは「役員会の決定」と言い訳し、役員は「ことに精通した担当部長の意見を尊重した」と言い訳する。不幸なのはだれなのか。「国民は、そのレベルに応じた政府しか持つことができない」と同様に、「社員は、そのレベルに応じた企業トップしか持つことができない。」

 自衛隊を軍隊といわない子供だましの詐話等々をはじめとして、「つぎつぎの、なりゆき」の勢いは決して止まらない。だれにも正体が見えないものを後ろ盾として、勢いのある高徳の人々のあたりから、誰が言い出したわけでもなく自然の成り行きとして、豊葦原の稲穂のようにつぎつぎに生まれてきたのだから。
 沖縄の今の状態の根底には、1947年、政治をできないはずの昭和天皇自らが、側近を通じて占領軍に「占領を早く終わらせてほしい。必要ならアメリカとの単独講和でもいいし、対ソ連基地も提供する」と取引に乗り出した生々しい事実がある。いきおいになびく日本のメディアは一切これを掘り出そうとしない。(ジョン・ダワー「昭和」 英語文献では'71年コロンビア大学刊:Martin Weinstein, Japan's Postwar Defence Policy 1947-1968 天皇の役割を明らかにしたのは岩波「世界」79年4月号だという)