アクセス数:アクセスカウンター

井筒俊彦 「イスラーム文化」

 P32-34
 イスラームは原則的に聖と俗の区別を立てない。このことは人間生活のいわゆる世俗的な部分まですっかりコーランのテクスト解釈によっていることを意味する。だから政治も、法律もそのまま宗教なのである。イスラームにおいては、宗教にかかわることがらの「専門家」である僧侶階級というものは存在しないし、存在できない。
 「わが王国はこの世のものではない」と言い、「カエサルのものはカエサルへ、神のものは神へ」と言ったイエスに対して、イスラームはまったく独自の道を行く。キリスト教の教会組織に代表されるような特殊な宗教的存在領域を聖別する代わりに、存在の全体をそっくりそのまま宗教的世界と見るイスラームにおいては、人間生活のあらゆる局面が根本的に宗教にかかわってくる。
 P55
 人間の神に対する無条件的自己委託、何をどうされても、ただひたすら向こうの思いのままという絶対他力信仰的な態度がイスラームという宗教の実存体験的中核をなす。人間が自分で主体的に努力して己の救済にいたろうとする、いわゆる自力的態度は、ここではまったく成立する余地がない。
 p70
 ここから、人間の自由意志の完全否定と因果律の排除まではあと一歩である。因果律を認めることは、原因になるものにある種の創造力があって、内在するその力で結果にあたるものを自分の中から生み出すことを承認すること。因果律を認めると、それだけ神の創造能力が減ることになる。
 また、人間の自由意志の完全否定は、他力信仰の極限状態として純宗教的には結構だろうが、このことには実は神の倫理性まで危うくしかねない側面がある。なぜならもし人間がまったく無力で、自由意志を欠くものであるなら、そんな人間が悪を為し罪を犯すのも彼の責任ではなく、すべては神の責任になってしまう。自分では全然悪を為す能力がない人間に強制的に悪をさせておいて、しかもこれを罰するというのでは、いくらなんでもひどすぎる。
 果たしてこのことは、初期イスラーム神学で大論争を惹き起こすにいたる。
 p83−4
  (メッカ期のイスラームが)なぜ暗い世界観になるかというと、あるがままの人間には、神の倫理性に応えるに足るほどの倫理性がないからである。
  人間は放っておけばいくらでも悪いことをする。機会さえあればすぐにでも罪を犯そうとする、つまり根本に強い悪への傾向性を持っている。神の前に立つ人間が、己の現実的姿を粉飾なしに真剣に反省するならば、己のいかに罪深い存在であるかという痛切な自覚を持たざるをえない。この罪の自覚、ともすれば悪に走ろうとする己の内的傾向性の自覚と反省から、(メッカ期のイスラームを特徴づける終末論的な)「怖れ」という実存的態度が出てくる。
 P116-7
 (ユダヤ民族にとっては)神の選民イスラエルということ自体が、いわば神の秘儀である。つまりイスラエルというユダヤ共同体は、民族性の激しい情念に支えられた情的共同体であり、民族的に閉ざされた共同体である。
 これに反して、イスラームの共同体はもっと冷静であり、「選ばれた集団」ではあっても、外に向って門を開いている。この意味でイスラーム共同体の宗教は仏教キリスト教と同じく、開かれた普遍的、人類的宗教である。
 P118
 イスラーム共同体の徹底した万人平等の観念を表す表現に「イスラームではカリフも乞食もまったく同等だ」という言葉があるが、しかしこれは神との契約構造において平等と言っているのであって、人間として平等であるというヒューマニズムを表しているのではない。
 P124
 イスラームにはキリスト教的意味での原罪の観念がまったくない。「あるがままの人間は確かにさまざまな悪をなし、罪を犯す」という意識はあるが、それは人間の本性そのものの深くしみこんだ根源的罪悪性ではない。アダムとイヴの、智恵の果実に関わる失楽園話はコーランにも出てくるが、神はのちにそれを赦してしまう。失楽園話は人間の原罪を象徴する説話としてではなく、神の慈悲深さの証明として語られる。
 イスラームには、仏教のカルマの思想もない。「人はこの世に一回だけ生まれ、その生命は時間とともに絶対的に終わり、世界の終末の日に同じ肉体が生前の形に戻って復活して最後の審判を受ける。カルマにしたがって何回も生き返りを繰り返すなどはありえない。
 P179-180
 サウジアラビアスンニー派の見方では現世は、本来的にはそっくりそのまま神の国であるべきもの。人間の現実が罪と悪に汚れているとしても、それは隅有的な汚れであって、決意と努力しだいで正しい形に建て直していけるものである。
 ところがペルシャシーア派ではそうではない。彼らにとって現世は存在の聖なる次元と俗なる次元の葛藤の場である。というより、現世は、コーランに書かれた暗号を解釈学的操作によって象徴的世界として見直さない限り、完全に俗なる世界であり、存在の天上的な次元と戦うことを本性とする悪と闇の世界と考えるのである。
 善と悪、光と闇の闘争という古代イラン、ゾロアスター教の二元論的世界表象が、きわめて特徴ある形でイスラーム化されてここに働いている。
 p197
 イラン民族の心の奥底には、紀元前のオリエントの大部分の支配者として権勢を誇ったアケメネス朝の記憶がひそんでいる。イランがアラブに征服されてイスラーム化する直前のササン朝の華やかな追憶もあり、偉大な王者の政治に対する強い憧れがイラン人の胸の中にともすれば湧き上がってくる。 無論完全にイスラーム化された政治理念としては、政治主権者としての王は、社会秩序の護持者であるのみで、宗教が民事生活のすべてを規定するイスラーム法の中では法的権威すらないが、それはあくまで政治理論上の建前にすぎない。古代のダリウス大王などを引き合いに出すまでもなく、ペルシャでは王は神の意志によって選ばれた絶対君主であり、人民の意向にはまったくかかわりを持たないのである。
 イランで絶対的に信頼できるのは隠れたイマームただ一人。しかしそのイマームは第12代が隠れたまま現在に至っており、誰もその言葉を直接聞き、指示を受けることができない。政治的形態についても、十中八九まではこれが正しいという確信があっても、あとの一分に疑問が残る。そしてその結果、シー派の人々にあっては、(いつも、誰に対しても恩恵を施せるとは限らない)その時どきの政治体系に対して、強い不信感が抱かれてしまう。