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アラン・ブルーム 「アメリカンマインドの終焉」 1

  今世紀最初の年のニューヨークテロのとき、二機目が突入するのを、帰宅してすぐのニュースでリアルタイムで見た。そのとき「アメリカの終わりの始まりだ」とおもわず呟いたのを憶えている。ローマ帝国が周辺民族の反乱に耐えられなくなった時も、こういう事が起きたのだろうと思っただけで、平凡なサラリーマンの私が何かを深く考えたわけではなかった。
 資本主義は、自らの本性として、資源と市場の風船を地球大まで膨らませ続けねばならず、奪われるアラブの怒りは収まらないのは分かっていた。しかし、ふるえる市民をTVで見ながら、彼らの気づかないアメリカの内部において「偉大な」アメリカンマインドが終焉しつつある、そのことのほうがアメリカにとっては深刻なのだとまでは、知る筈がなかった。
 危険な病巣は多民族の共生、人民発議が生きる民主政治、異なる価値観への寛容、男女平等・・・などの、正面からは誰も異議を唱えられない社会体制の奥にあった。「アメリカ的」なものの発展の歴史自体が重篤な病気の原因になっていた。なつかしいヒッピーのいかにも安直な倫理観や、レイモンド・チャンドラーの小説に登場する探偵の自足しきったハードボイルド台詞には昔から違和感があったが、アラン・ブルームの決定的なアメリカ論はその根元にあるものを教えてくれた。
 ニューヨークテロの数年後、サブプライムローンがその根元からはびこった。金まみれの仕掛け人たちはジャンク債権をAAA債権として世界中に売りつけ、ローンの借り手は自らの能力を忘れ、空想の実現を哀れにも信じて再び泥の中に沈んだ。・・・こうした著者に対してアメリカ本国では「鼻持ちならぬエリート主義者、とんでもない性差別論者」という評価も、当然ながらある。

 [序文] 
 P29
 西欧の国々、すなわちギリシア哲学の影響を受けた国々だけに、自らのやり方を善と同一視することを疑おうとする態度がある。異文化の本格研究はほとんど西欧特有の現象だが、われわれが現実におこなっているのはある西欧的偏見にもとづいており、自分たちの妥当性を立証するためにこれら異文化を研究しているのが実態である。
 アメリカの教授たちが、非西欧文明のナショナリズムへの「寛大」を説く場合、彼は自らの科学的理解の優越性と、そうした優越性に反駁する異文化の劣等性、この二つを知らず知らず断言しているにすぎない。
 P34
 アメリカ社会の「寛大」は、きわめて有力なものに対する屈服、あるいは立身出世崇拝をいかにも正義の原則に基づくかのように見せるやり口にすぎない。メディアがプロデュースし大衆が演技する世論が支配している今日、歴史主義は奸計をめぐらして、「アメリカの偉大な歴史」に対する一切の抵抗を除去しようとする。
 もしアメリカの「寛大」が「偉大な歴史の流れのままに進む」ことを意味するなら、必ずそれは現在への順応になる。自らの過去と現在について疑いを欠く精神は、日照りが続く草原の野牛のように空虚である。
 [学生]
 P94−95
 大津波のごとく大学を襲ったブラックパワーは・・黒人文化研究とか黒人英語とかいった科目を生み出し、黒人学生が黒人の体験を経験し研究するという道を拓いた。それは彼らにとって居心地のよいもので、彼らは人間が近づいておくべき教養に縛られることがなくなったのである。以後、経済的援助や職員採用や試験評価において一種の黒人領域というものができあがった。
 P116
 近代精神はすべての人間が平等に扱われることを約束した。女性たちはこの約束を生真面目に受け止め、古い秩序に立ち向かった。しかし女性がこの戦いに勝利を収めたとき、男性もまた自分たちを縛ってきた古い拘束から解放されたのである。女性はいまや解放され、男性と平等の社会的立場を獲得するにいたったが、それでも子供を産みたいという願望は昔と変わらない。 
 しかし、子供がほしいという自分たちの願望を男性も共有すべきだとか、男性も子供に責任を持つべきだとか主張する論拠は、彼女たちにはないのである。こうして自然の本姓は女性により重い負担をかけている。古い秩序にあっては女性は男性に従属し、依存していた。新しい秩序では女性は孤立し、男性を必要としながらも男性に頼ることができない。自分たちの個人としての立場が自由を増す一方で、女性は身動きができなくなっている。女性の側から言えば、近代精神はほんとうは約束を果たしていないのである。
 P127
 学生たちは今ではデートもしない。いまの学生は発情していないときの動物の群れと同じように、性が分化していない群れ、あるいは集団の中に生きている。
 P133
 夫婦の職場が別々の都市にある場合、どちらがどちらに従うのか。これは未解決の問題で、どんな意見が出されようとも、痛む傷口であることに変わりはない。それは憤怒と猜疑の種であり、ここからいつ戦争が始まるとも知れない。
 さらにフェミニストが持ち出した妥協は、子供の世話については何も決めていない。両親とも子供より自分たちの仕事を大事にしようとしているのだろうか。以前だと、子供は少なくとも片方の親――すなわち女性――から無条件の献身を受けたものだ。女性にとって子供の世話は人生でこよなく重要な勤めだった。夫婦二人が子供に払う半分ずつの配慮は、一人が懸命になって払う配慮の全部と同じといえるだろうか。二人の共同責任というのは子供を無視するための言い訳ではないのか。