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アラン・ブルーム 「アメリカンマインドの終焉」 2

 [アメリカンスタイルのニヒリズム]
 P157−8
 M.ウェーバーが言うように、計算をこととする理性が行き着く先は、結局、共同体の形成をおこなわず、共同体を支える価値も持たない、心情もなければ魂も欠いた、無味乾燥な管理であろう。一方、感情はうわべだけの快楽に利己主義的におぼれる結果に陥るだろう。政治的傾倒は、ファナティズムを助長する傾きがあるだろう。そのとき、人間に価値定立を行なう十分な力が残されているかどうか、それは疑問である。
 価値相対主義の中では、人々はある行いの帰結を知的・道徳的な根拠なしに取り仕切らなければならない。誰でもある判断をするには、相対的ではない価値を必要とするが、この価値は、うわべだけではない特異な人間の創造性を必要とする。しかしこの創造性はいまや涸れつつあり、アメリカの価値相対主義の理性には確かな根拠を持ったどんな支えもない。あるのは、発言者全員がそれぞれの立場で正しいとする「寛大さ」のみである。科学的分析は、人間が価値評価を行なうための地平を消滅させておきながら、それが今度はその理性は無力だと結論する。
 もしも、価値相対主義が真実であり良しとされるなら、それがわれわれを魂のきわめて暗い領域と危険な政治的実験へ追いやることは明らかである。しかし魔法にかけられたアメリカの土壌には、このような悲劇的感覚を容れる場があまりない。外国から見れば実に不可解な銃規制への抵抗、国民皆保険への抵抗などは、すべて郡(County)やそれ以下の小さな地域住民の市民運動として盛り上がっており、この国における右派メディアと市民保守層の前近代的牢固さはまったく揺るぎがない。 
 ニーチェウェーバーの価値の洞察は'60年代になってから合衆国に影響を持ち始めた。その影響は、ニーチェウェーバーの意図を見事に裏返しにして、倫理哲学に無関心だった親世代の子供たちによる、きわめてアメリカ的現象となって現れた。ヒッピーやイッピーが独特の大衆文化価値への熱狂を示し、彼らを育てた年長者にきわめて不快な社会授業を行ったのである。
 P163
 フロイトがそれほど関心を示さなかったアメリカが、フロイトにこれほど傾倒したことは、いまなお大きな謎である。
 精神科医がその鍵を握っている地下室が存在することを、ひとたびアメリカ人が確信するようになったとき、われわれは、自分の存在の神秘で自由で無限な中心、「自己」に向かうようになった。われわれはすべて自己に由来するのでありほかには立脚点を持たない。ニヒリズムとそれに伴う実存的絶望はアメリカ人にとってはほとんどポーズに過ぎないが、ニヒリズムから派生した言語がアメリカの教育の一部になり、日常生活にじわじわと浸透するにつれて、アメリカ人は、この言語が決定するようなやり方で幸福を追求するようになったのである。
 P164
 魂の状態としてのニヒリズムは、確固たる信念の欠如という形ではなく、むしろ本能や情熱のカオスという形で現われる。魂の多様な欲求が自然な位階秩序をなすとは、人々はもう信じていない。魂は、定期的に出し物を替える、芝居の一座の舞台になる。あるときは喜劇を、あるときは悲劇を演じ、またある日は愛を、別の日は政治を、再び信仰と敬虔を取り上げ、またいまはコスモポリタニズムを、今度はカントリーへの忠誠を演じ、・・感傷を取り上げ、残虐を取り上げ、次は先住民への謝罪を、という具合である。
 P175
 内面が意味を持つためには、外面が存在しなくてはならない。外面がそのつど観客受けをねらうなら、内面の脚本は意味を掘り下げている余裕がない。
 P176
 必要とされるのは、キリスト教的な徳やアリストテレスの徳を実践する人々ではなく、勤勉な人々である。そうした人々の対極にあるのは、不道徳な人間、邪悪な人間、罪深い人間ではなく、諍いを好む人間、怠惰な人間である。まぎれもなくそれと知れる連中のほかに、(高位の)僧侶もこの種の仲間に含まれよう。
 P208
 文化という観念は、近代科学という文脈の内部で人間の尊厳を見出そうと確立された。その科学は物質主義であって、決定論的だった。
 人間が獣たちと本質的に異ならないのなら、人間には何の尊厳もありえない。政治的・経済的装置が人間を獣に還元するのを阻止するためには、人間の中に何か別のものが存在するのでなければならない。
 アメリカにおいて人間の尊厳を確立しようとした人々は自然、自由、芸術、科学といった重要概念を持ち出し、なかでも自由が最も高い尊厳を備えていると考えた。だがその根拠は疑わしい。自由は「・・・から束縛されない」という一つの要請にすぎず、「・・・をなしうる」という積極概念ではない。アメリカの「自由」は「好きにさせてくれ」という子供じみた台詞かも知れない。
 P212
 ニーチェにとって見ればわれわれアメリカ人こそ、最悪の、最も見込みのない連中を代表しているだろう。われわれが置かれた状況を把握するには、自身への深い軽蔑を経験しなくてはならないが、その能力をわれわれは失っている。
 ニーチェのもとでこの経験に出合ったのち、ウェーバーは学問的生涯の大部分を宗教の研究に費やした。それは、軽蔑すべきでない人、すなわち、何かを重んじ崇め、自己満足していない人々、相対的ならざる価値を抱こうとする人々、そのような人々を理解するためだった。
 P216
 人間によって作られた神は、人間にはそれと知られずに、人間とは何であるのかを反映する。神はわれわれにかかわりのある世界を無から作り出したといわれている。そのように人間は何かを、つまり神を、無から作り出すのである。
 p217
 西欧諸民族にとって、モーゼの石板以外に、民族の内的経験と外的表現との統一を与えた価値はない。二千年後に、一人の心理学者が民族を構成する神話を創造する処方箋を「現代風に」どうして作り直せよう。どの神話が役に立ち適切であるかを決定しうるような、規格化された検査は存在しない。
 神話の基礎には、実体も原因も何も存在しない。善と悪を知ろうとする合理的な要求の中にであれ、あるいはたとえば経済的な決定要因の中にであれ、そこに価値の原因を求めても、価値についての的確な説明は得られない。ただ創造性の生み出す諸現象に開かれた態度のみが、何らかの明確さをもたらすことができる。
 フロイトは無意識を受け入れた。科学によってこの無意識を完全に明らかにしようとした。しかしフロイトのやり方は、神が創造したものから神の本質あるいは本性を決定しようとするようなものである。神は無際限に様々な世界を創造できたろう。もしも神がこの世界しか作り出せなかったとしたら、神は創造的でも自由でもなかったろう。
 p219
 すべての人々が原理的に近づきうるような経験が存在しないという事実は、人々のあいだの不平等を立証している。
 モーゼ、イエス仏陀ホメロスらの天才を際立たせているのは、彼らの思想が真理だということではなく、その思想が文化を算出する能力を備えていたからである。ある価値は、それが生活を維持し、強化するときのみ価値なのだ。
 価値は合理的ではないし、それに従う人々の本性にもとづいてもいない。それゆえ、価値は押し付けられねばならない。合理的説得では価値を人々に信じさせることはできない。価値を生み出しそれを信じるということは、意思の行為である。だから、闘争は必ず起きなければならない。
 P220
 人は未来を知ったり計画したりはできない。人は未来を意思しなければならない。プログラムはない。
 p229
 市場主義者たちが「労働倫理」という語を用いるとき、彼らは市場主義の「合理的」システムが機能するためには、「道徳的」(という非合理的な)補完物が必要だということに気づいていない。
 p242
 ウェーバーは、伝統、理性、カリスマは、暴力にもとづく他人の支配を受け入れる「正当性」の三つの形態であるとする。一方、マルクス主義者たちは、支配なしにもろもろの価値が存在するような世界を、いまだにむなしく期待している。