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アラン・ブルーム 「アメリカンマインドの終焉」 3

 p250
 興味あることはニーチェハイデッガーの二人が、ドイツアカデミーの世界から、「いい人物なら好きになれないやつなんかいない」アメリカのマーケットに運ばれてきたことである。「幸福な人間」がいかに悪しき状態にあるかを知識人に説明するために作られた言葉が、逆にいかに未来に対して開かれた存在であるかを世界に対して宣言する言葉として採用されることになったのである。
 どうやらこの二人のことばは、輸送のさいに傷んでしまったのだ。
 p252
 「実存主義は、存在と無という問題に対しわれわれに何をしてくれただろうか、あるいは、価値は善悪の問題に対し、創造性は自由と必然性という問題に対し、聖なるものは理性と啓示の問題に対し、それぞれ何をしてくれただろうか。」アメリカでは、これらの語によって説かれているものは、その背後に何の秘密も隠してはいない。ヨーロッパで悲劇を生んだかつての葛藤は、アメリカでは“我もよし、汝もよし”という「寛大」な保証ラベルを新しく付けられて再登場する。
 今日われわれが選択を云々する場合、それがよく考えられた妥当な帰結かどうかは関係ない。相手の非難は偏見に過ぎず、自分の罪責感はたんなる神経症であると考えれば、それで済んでしまう。
 パスカルは万物の根拠との身をすり減らす対決がないと、人間の真面目さが減じてしまうと言ったが、トクヴィルは生真面目よりは平等のほうが正義にかなっていると信じた。アメリカにはノー・フォールト(過失責任を問わずに損害を賠償する)の自動車事故があり、ノー・フォールト(過失責任を問わずに結婚解消を認める)の離婚がある。アメリカはいま近代哲学の助けを借りて、帰結の妥当性を不問にする選択に向かいつつある。
 p254
 人間は、行動主義者たちがわれわれに信じ込ませようとしているような、たんに問題解決にあたる存在ではない。人間は問題を知り、問題を受容する存在でもある。
 p256
 (ヴェニスに死すの主人公・アッシェンバッハのように)文化の下部構造に気づくことは、文化にとって致命的である。
 ニーチェではもろもろの高みへと導くことを意図していたものが、ここアメリカでは、現在の欲望の側に立ってその高みの正体を暴露するのに用いられた。高次のものを低次のもので説明する場合にこうした傾向はつきものだが、とくに民主主義政体の下ではそうである。そこでは、だれでもが善を入手可能と考えられており、特別な権利の要求をするものに対して嫉みが向けられるからだ。
 p258
 性衝動が本当に望んでいるものは何かについてのフロイトの解釈には、しっかりとした、アメリカ人の生来の経験主義に訴える基盤がある。さらに、猥褻なことについて語る手段としては、詩より科学のほうをアメリカ人は好む。こういったことすべてに加えて、アメリカ人の欲望にある種の根拠をもたらそう、アメリカ人を悲惨から救い出そう、という約束をフロイトがしていた点が、彼を当初から勝者にし、大陸の偉大な思想家全員のなかで彼を最も近づきやすい人物にしたのである。
 p261
 かつては自由人、文化の周辺に属する人々は、自分たちの非正統的な活動を、知的・芸術的な成果によって正当化しなければならなかった。しかし「ライフスタイル」の概念が広く認知されれば、どのような活動も自由で容易に認められる。成果、内容には全く注意を払わなくてよいのである。
 p261
 善き存在でありたいという私たちの深い欲求は満たすことができない。しかしアメリカでは、このことがニヒリズムと結びつき、それがモラリズムとなってしまったのである。わたしがおぞましいのは、相対主義の非道徳性ではない。仰天させられ下劣に思われるのは、私たちがそうした相対主義を何も考えずに受け入れているということ、それが自らにとって何を意味するかについての関心をお気楽にも欠いていることである。
 P275
 各人が自分自身の意見に従うべきだ、というのは大変結構なことだ。しかし、社会的・政治的生活を送るためには意見の一致が求められる以上、調停が必要になる。それゆえ、多数意見に反対する強力な根拠がない限り、必ず多数意見が勝つことになる。これは、多数派の専制のじつに危険な形態である。
 この種の専制は、少数派を積極的に迫害するのではなく、抵抗しようとする内なる意志をくじく。なぜなら、多数に同調しないための原理をくみ出す適切な源泉などないからであり、そこでは数に左右されない正しさ(権利)があるという感覚が失われる。人を脅かすものは、多数の力ではなく多数がとる正義という姿である。
 P276
 奴隷制だけでなく、貴族政治、君主制、神政も独立宣言や合衆国憲法によって葬り去られた。これは国内の平安にはたいへん好都合だった。が、そのことで、勝ち誇った「平等」に関する多くの理論的疑問を励まし、助長するという結果にはならなかった。
 いま日本社会の根底にあるのも自由よりは平等への卑しい熱望である。少しでも抜きん出るものを引きずり落とそうとする怨念である。皆同じような化粧をし、サッカー場全体主義国家のマスゲームのような応援をする人たちにとって、自由の雰囲気をみせることはよほどの勇気を必要とする。
 アメリカ社会の卑しさは、すっかり日本のあらゆる階層に染み渡った。どの企業も、どの地域も、この卑しい人びとが最大多数になりおおせた。私たちが自由を学ぶのには数十年を要したが、それがようやく根付いたころ、毎日飲む水にはアメリカの毒が回り始めていた。

 P277
 自由にとって必要なのは、他に選択できる思想が現にある、ということだ。外なる世界がありうるという感覚がなければ、自由とは無縁である。思想と根本原理に差異を認めなければ、それはアメリカ人が最も嫌ってきたはずの画一主義である。民主主義・ポピュリズムに伴う多くの事柄が差異の意識を攻撃する。
 P278
マルクス主義の知的魔力の一つに、民衆は腐敗したエリートに支配されているといって、民衆の不正と俗物根性を弁明し、その罪を免除してやるというやり口がある。「ブルジョアの俗物根性」とは、実はあらゆる時代あらゆる場所の民衆が持つ本性かもしれない、という可能性に直面するものはまずいない。ポピュリズムは定義上、世論に抗することができない。
 P282
 大学は、民衆の体系の埒外にある大学の重要性について、鋭い感覚を持たねばならない。大学は、万事を社会のために行なおうとする傾向に抵抗しなければならない。
 P308
 しかしながら、自分たちが気にかけているものに宇宙による支えがない、という事実に直面することほど困難なこともない。