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福岡伸一 「生物と無生物のあいだ」

 p142−3
 分子のような微粒子は、液体中では拡散の法則によって、「統計学的な平均としては」濃度の濃いほうから薄いほうに徐々に広がっていく。しかし、観測のある瞬間をとってみれば、粒子のうちのいくつかは、拡散の法則からはずれて、濃度の薄いほうから濃いほうに逆行しているものがある。
 平均から離れて、このような例外的ふるまいをする粒子が現れる頻度は、平方根の法則と呼ばれるものに従う。つまり百個の粒子があれば十個程度の粒子は平均から外れたふるまいをしていることが見出される。これは純粋に統計学から導かれることである。
 仮に、たった百個の分子からなる生命体があるとすれば、百個中十個の分子が例外的なふるまいをするわけで、生命活動は10%の誤差率で不正確さをこうむることになる。この確率は高度な秩序が要求される生命にとっては致命的であろう。
 では生命体が百万個の分子で構成されているとすればどうだろう。平均からはずれる分子はルート百万、すなわち一千となる。すると誤差率は0.1%となり、格段に下がる。実際の生命現象では百万どころかその何億倍もの分子が参画している。生命現象に必要な秩序の精度を上げるために、シュレディンガーの言う、「生物はこんなに大きい必要」があるのだ。
 P153−4
 生命を構成する水素、酸素、炭素、窒素などの元素は、「生命という城」のなかに常にとどまっているものではない。かつて生命の中に砂粒のように積まれていたそれらの元素は、いつのまにかすべてもとの自然界の中に持ち去られてしまっており、現在積まれている元素は新たに外の自然の中からここに持ち込まれたものである。つまり生命は、「実体」としてそこにあるのではなく、持ち去られ・持ち込まれるという「流れ」が作り出した「効果」としてそこにあるように見えているだけの、動的平衡状態にある「何か」なのだ。
 p157-9
 このような転換的な生命観が、ルドルフ・シェーンハイマーによる精密な実験でもたらされたのは、1930年代のことである。シェーンハイマーは窒素同位体である重窒素で標識されたアミノ酸を含む食事を、ネズミに三日間与える精密な実験を行った。そしてそのたった三日間にネズミの体内では、全体のタンパク質の半数が重窒素アミノ酸にがらりと置き換わることを発見したのである。新たに構成された重窒素タンパク質はネズミのほとんど全ての組織に広く分散していた。
 もちろんネズミの体重はこの三日間でまったく変化しないように実験は設計された。つまりネズミの体内では新たに構成された重窒素タンパク質と同量の、「それ以前のタンパク質」がすみやかに分解され、小さな分子となって体外に排出されていたのである。
 数千年来、不動の実体としての生命観を受け入れてきたわたしたちは、まったく新しい動的平衡としての生命観に遭遇してからまだ70年程度を経たに過ぎない。しかも彼が明らかにしたものの意味を十分咀嚼できたわけでもない。
 P161
 外から来た重窒素アミノ酸は重窒素タンパクに構成され、しばらくして再び分解されて、ネズミの身体をくまなく通り過ぎてゆく。しかし通り過ぎてゆくという表現は正確ではない。そこには「通り過ぎる」べき入れ物があったわけではなく、入れ物と呼んでいるもの自体を、通り過ぎつつある物質が、一時、形作っていたに過ぎないからである。
 P163−7
 私たち生命体は、たまたまそこに密度が高まっている分子の、ゆるい「よどみ」でしかない。しかも、それは微分的時間のなかで、アミノ酸分子の、分子構造の起伏・電荷・親水性・疎水性などを総合した相補性によって、ジグソーパズルのピースのように、ひとつひとつが特異的に入れ替わっている。
 エントリピー増大の法則は生体を構成する成分にも降りかかる。高分子は酸化され分断される。集合体は離散し、反応は乱れる。タンパク質は損傷を受け変性する。しかしもし、やがては崩壊する成分をあえて先回りして分解し、変性の速度よりも速く再構築を行なうことができれば、結果的にその仕組みは増大するエントロピーを系の外に捨てることができる。
 この入れ替わりによるエントロピー放出の流れ自体が「生きている」ということであり、常に分子を外から与えないと、出て行くものとの収支が合わなくなるような、動的平衡にある流れである。秩序は、守るために絶え間なく壊されなければならない。
 p284
 生命の動的な平衡は、どの瞬間でも、危ういまでのバランスをとりつつ、時間軸の上を一方向にたどりながら折りたたまれている。それが動的平衡の謂いである。これを乱すような操作的な介入を行えば、動的平衡は取り返しのつかないダメージを受ける。私たちは、自然の流れの前に跪く以外に、そして生命のありようをただ記述すること以外に、なすすべはない。