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TVから 「高齢馬だけの牧場」

 すこし前TVで、年老いた馬ばかりを集めてゆっくりと余生を送らせる牧場ができたというニュースがあった。大きなレースを勝ったサラブレッドもいたし、名もない雑種の馬も映っていた。
 そこのオーナーだったか、関係者の一人だったかは忘れたが、むかしは美人だったことを確信させる、形のよい額をした七十歳前後の老婦人の短いインタビューが印象的だった。
 この計画はなにも馬たちの老後を安楽にと考えてのことだけではないと、やや不機嫌そうに老婦人は語っていた。老いた馬とともに暮らすことで、自分たちの余生を見つめる時間がうまれる。老いた馬は自分たちの今後の時間を感じとるように接してくれるし、自分たちは人間の知性の範囲の中で彼らに理解と共感を贈ることができる。
 生命のたそがれのさびしさは、限りが近づいたものとしか一緒に分かち合えないと、彼女の深みのあるまなざしは、若い女性インタビュアーのそれ以上の質問を拒否していた。老婦人の内側に入り込む言葉と経験をまったく持たないゆえに、彼女に見つめられた若いインタビュアーは気後れを隠せなかった。
 馬も犬も、自らの余命などは自覚していない。われわれが「考える」のは言語によってでしかあり得ないし、その意味で言語をもたない馬や犬は死を「考える」ことはない。
 私たちが数年も動物と慣れ親しむと、個体としてのいのちだけでなく、私たちと共有している生命のつながりそのものを彼らに強く感じるのはなぜなのか。「おまえはなぜ犬に生まれてきたのか、どうして人間として生まれず、同じ時間を過ごせなかったのか」と意味のないことを嘆いてしまうのはなぜなのか。
 そのとき犬が伝えてくれるものに、私たちの知力で解ける信号はない。しかし犬がこの世界そのもののように無反応であっても、同じ家に住む者の嘆きは変らない。若い男女の、嘆きの不思議を解いて和らぐような嘆きは、嘆きではない。犬に生命を訊いても無反応というなら、巡査にアウグスチヌスの愛の概念を訊いても無反応である。感傷だというなら生まれたばかりの子供への愛も感傷である。
 七十歳の女性と三歳の犬に残された時間はどちらも十年である。七十歳の女性は人間の遺伝子に刻まれたスピードであと十年の時間を過ごすが、三歳の犬は人間の五倍の速度で壮年期、老年期を過ごす。時間の速度は生命という系に刻まれた運命そのものなのだから――子供のひと月がゆっくり経過し、五十歳のひと月が二倍のスピードで経過するように感じても、それが生命というものなのだ――十年後のある日、いま七十歳の女性と三歳の犬は死を迎える。
 そこにいたるまでの数ヶ年、元気のあった犬が彼女を追い越すように年を取って行く過程を見ることで老婦人は不可逆の「時間」の正体をはっきり確認するだろう。彼女は、「時間」が自分の衰え行く美しい額と唇と顎の形ともなって、愛する子供たちにその刻薄さを知らしめ、準備させるものであることを知るだろう。
 このことはしかし、悲嘆にくれることでも何でもない。不機嫌そうに見えた美しい老婦人は、勉強をしていない若い女の薄っぺらな質問をいやがっただけのことであって、彼女はそれよりも老いた馬と時間のことを話し合いたかったのだ。