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夏目漱石 「虞美人草」

 p99
 御機嫌に逆らったときは、必ず人を以て詫びを入れるのが世間である。女王の逆鱗は鍋、釜、味噌漉しのお供物では直せない。針鼠は撫でれば撫でるほど針を立てる。役にも立たぬ五重塔を腫れ物のように話の中に安置しなければならぬ。帝大卒の銀時計の手際では少し難しすぎるようだ。
 p207
 欽吾はわが腹を痛めぬ子である。謎の女の考えは、すべてこの一句から出立する。この一句を敷衍すると謎の女の人生観になる。人生観を増補すると宇宙観ができる。謎の女は毎日鉄瓶の音を聞いては、六畳間の人生観を作り宇宙観を作っている。六畳間の人生観を作り宇宙観を作るものは閑のある人に限る。謎の女は、絹布団の上でその日その日を送る果報な身分である。
 p208
 他人でも合わぬとは限らぬ。しょうゆとみりんは昔からあっている。しかし酒と煙草をいっしょに飲めば咳が出る。
 幸いに藤尾がいる。冬をしのぐ女竹のように夜に積もる粉雪をぴんと跳ねる力もある。三国一の婿と名乗る誰彼を、迷わしてこそ、焦らしてこそ、育て上げた母の面目は上がる。
 美しき娘には名ある婿を取らねばならぬ。娘の気に入らぬものは、自分の気に入らぬものは、役に立たぬ。指の太さに合わぬ指輪は貰っても捨てるばかりである。
 p209
 くれるというのは本気で言う嘘で、貰わぬ顔つきを見せるのも隣近所への申し訳に過ぎない。欽吾の財産を欽吾の方から無理に藤尾にゆずるのを、いやいやながら受け取った顔つきに、文明の手前を繕わねばならぬ。くれるというのをくれたくない意味と解き、貰う料簡で貰わないと主張するのが謎の女である。
 六畳間の人生観はすこぶる複雑であるが、欽吾と藤尾のことを引き抜くと頭は真空になる。謎ばかり考えているものは迂闊である。
 p218
 嘘は河豚汁である。その場限りで祟りがなければこれほどうまいものはない。しかし嘘の繕いは隠そうとする身繕い、素性繕いが、疑いの眸を集めてしまう。嘘は、綻びるを持前とする。綻びた下から醜い正体が、それ見たことかと現れたときこそ、身の錆は生涯洗われない。
 p228
 瓢箪形の池浅く、炒った卵の黄身に朝夕を楽しく暮らす金魚の世は、尾を振りたてて藻に潜るとも、立つ波に身をさらわれる憂いはない。鳴門を抜ける鯛の身の、荒海の下は地獄へ底抜けの、行くも帰るも徒事では通れない。「お嫁に行ったら人間が悪くなるというのは本当ですか」と、海を知らぬ糸子さんに、海の話はしないほうがいい。
 p248
 漸くの思いでついた嘘は、嘘でも立てねばならぬ。嘘を実と偽る料簡はなくとも、吐くからには嘘に対して義務がある。一生の利害が伴って来る。二重の嘘は神も嫌いだと聞く。今日からは是非とも嘘を実と通用させなければならぬ。
 p350
 「甲野さん、糸子を貰ってやってくれ。家を出てもいい。山の中へ這入ってもいい。どこへ行ってどう流浪しても構わない。僕は責任を以って糸子に請合ってきたんだ。君が言うことを聞いてくれないと、妹に合わす顔がない。たった一人の妹を殺さなくっちゃならない。学問も才気もないが、あれは正直な女だ。誠のある女だ。君のためなら何でもするよ。殺すのはもったいない。」


 虞美人草は、朝日に入社した漱石の職業作家としての処女作だ。どの人物も輪郭がはっきりしていて、複雑でないが、最終章は唐突である。自分の功利主義と井上父娘への報恩義務の背反に悩む小野さんは、宗近に道義を説かれてあっさり真人間になってしまう。哲学者甲野はそれまでの高踏的言辞を捨てて、継母に対して彼女の偽善のよって来るところを諄々と説く。不死身に見えた藤尾が、見下していた全ての人間に離れられ、死んでしまう。糸子は甲野とめでたく結ばれるだろう。
 これらは、新聞読者に迎えられなければならぬと過剰に意識した漱石が、分ってやった人情活劇大団円だろう。新聞小説にまだ講談話を求める大衆読者に、自己欺瞞にふらつく近代人のジレンマをいくら書いても、ただ鬱陶しさだけを与えることを敏感に察知していたに違いない。いつまでも小野をふらふらさせていて、小夜子をどん底に落とし、藤尾に凱歌を上げさせても、その藤尾がやがて小野を切り刻むは分りきったことだ。捨てられた小野は博士論文は仕上げようが、小説の中心人物の一人として負の価値観を代表する人間に成長するとは思えない。甲野も、知識人の厭世と相対主義の無聊から出ることは不可能に思われる。小夜子は、恨みと絶望の底辺に沈み、浮き上がる希望はない。
 小野と甲野だけを膨らませて世界と葛藤させても、講談を待つ読者には退屈な心理小説だけが残る。しかもその「心理」は、「囚人のジレンマ」のような裏切りと、計算のあげくの破綻と、生活費を稼がねばならない人情などの中で錯綜して語られる。近代人の悩みをあらゆる角度から書こうとすれば、それは中心に「核」というものがない複雑系全体の成り立ちを淡々と叙述するとするのと同じことになってしまう。民衆相手の小説としては、現在でもほぼ成り立たない筋書きである。
 過去には前近代の悪と固陋があり、未来には西洋のあけすけな見下しと文化侵略が待つ。作家は、国家の理不尽と世俗の姑息・頑迷に取り巻かれた当時にあって、宗近老人の恬淡・豪放が「権力にはとりわけ恭順な老壮道士」のコインの表側に過ぎないことを知らせている。読者の大半は、小野と甲野に、自分たちとはちがう近代の匂いを異臭として嗅ぎ取る。合わぬものを我慢して読んでくれるのは初めの数章だけである。月給200円という破格の待遇だった責任感の強い漱石にとっては、これは最悪のシナリオである。
 私人としての漱石は糸子さんを作中人物で一番自然で好ましく思っていたという。藤尾については「徳義心のない嫌な女だ。あいつを最後に殺すのが一篇の主意である」と弟子・小宮豊隆に語っている。しかし作家としての漱石に「近代」は両義的にしか現れない。「誰彼を迷わす、焦らす」藤尾こそ、劉邦に追い詰められた項羽の死後、項羽を慕って自害し、その墓に可憐な花が咲いたとされる寵姫・虞美人に擬せられたヒロインだろう。昔知っていた、噂では群がる蟻に糖蜜を与えて溺れ死なせたという、この藤尾にも似た美しい人から、「高潔な項羽は愛人を信じたのでしょう」と背筋に秋風が抜けるような話を聞いたことがある。