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レイモンド・チャンドラー 「ロング グッドバイ」 村上春樹訳

  「偉大な歴史」の翳りがまだ始まっていなかった二十世紀中盤のアメリカ。探偵フィリップ・マーロウは、事件解決の翌日にもまた同じような騒動に巻きこまれるだろう。国民が自国(を世界と思うほど)の大きさと資源と軍事力に自足しきったところにだけ成り立った小説だ。チャンドラーは人物の「性格」は見事に描ききるが、そもそも人の性格とは何なのかにはまるで拘泥しない脳天気さである。(世界の真ん中をミシシッピが流れていると思っていた人は中下層には実際に多かったらしい。)
 アメリカにおいて人間は問題「解決」に当たる(行動あっての)存在であり、問題に包み込まれて問題自身の意味にたじろぎ、動くにも動けない存在なのではない。問題はつねに、(われわれに設定可能な有限の変数を持つ)人間が作り出すものであるから、解決できない問題は原理的にありえないのだ。かくして「問題」の深所は訊ねられることがなかった。難しい人間は「一筋縄ではいかないタフな奴」と描かれた。そういう国に、私たちはずっと付き従い、「沖縄基地のおかげで日本は何兆ドル得をしてきたんだ」と上院議員に言われ続けてきた。
 村上春樹はチャンドラー自身の「世の中のすべてに通じているぞ」という個人的悪臭まで見事に訳し切っていて、こちらは逆に閉口した。村上はきっとこういうアメリカ文化が好きなのだろう。
 村上が「解説」に書いた「準古典小説としてのロング グッドバイ」という語句。準古典とははじめて聞いた言葉だが、シェイクスピアゲーテフローベールドストエフスキーを「古典」としたときの「準古典」なのだろう、ありていに言えば。群をぬいたストーリーテリングと人物の肖像の分かりやすさは、「海辺のカフカ」に二、三箇所あったバーゲンの売り子のような台詞の安直さと、根は同じに違いない。「海辺の・・・」エンディングで主人公と彼を捨てた母親(だったか)が真面目に交わす「私を許してくれますか」「許します」などは少女小説にしかあってはならないし、オイディプス的父の強迫観念が慎重な伏線なしに登場するに及んでは「村上春樹ともあろうものが手抜きするな」と素人読者にも思わせてしまう。