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小川洋子 『猫を抱いて象と泳ぐ』(文芸春秋)

 読み終えて数日経つと、夢のシーンの連続であったような、残酷だが穢されてはいないチェスをめぐる不思議な物語が、読んだ人のなかにもう一度染みわたってくる。
 p154
 チェスの終盤が近づくと、達者なルークづかいのお転婆だった令嬢の動きが少しずつしとやかになった。体操の時間は過ぎ、哲学の時間が訪れたのだ。
 p172
 チェスの可能な棋譜の数は十の百二十三乗あるという。宇宙を構成する粒子の数より多いと言われているらしい。
 p253
 「いいチェス盤ね。何度見てもそう思う。邪心がなく、毅然として、慈愛に満ちている。暴力でなく知恵だけで世界を倒したアリョーヒンの詩を映し出すのにふさわしい盤だわ。」
 「チェス盤はわたしたちがどんな乗り物でもたどり着けない宇宙を隠しているのだから、人間は自分のスタイルを築く、人生観を表現する、自分を格好良く見せる、そんなことは全部無駄です。チェスの宇宙のほうがずっと広大なのだもの。」
 言葉がチェス以上には或るものの深奥に迫りえないことが、わたしたちの生が言葉の貧弱な分節の果て以上のものでありえないことが、簡潔な文章の裏側で語られる。男と女、裏切りとカネ、蔑みとへつらいといった世間のいざこざは、通りかかった街角の一瞬の悪臭のように、たちまち忘れられるものとして触れられているだけである。主人公の生命すら最後にはあっさり事故でなくなって、仰々しく悲しまれたりすることもない。
 雑味のとても少ないすぐれた作品だった。半透明の大きな翼をいっぱいに広げて、真空の夜空を星に向かって飛んでゆく鳥のイメージが残った。たたかうアリョーヒンの肩にとまる白い鳩が、いつまでも濁らないものがあることを教えてくれる。インディラという三十七年間デパートの屋上に取り残された象も、ポーンというチェステーブルの下に蹲る猫も、棋譜を書き続ける少女“ミイラ”も、自分たちが現実に生きられないことを恨まない。彼らの、自分をほとんど語らない寡黙さが、見えない世界のどこかにある香しさを少しだけ伝えてくれる。