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竹澤秀一 「法隆寺の謎を解く」

  創建法隆寺天智天皇の指示による放火で失われたという推理は(もはや常識に近いらしいが)面白く説得性があった。しかし、本一冊として言いたかった<北極星からの南北軸を絶対視するヨーロッパ―中国とは全く異なる、人々が住む風土に合わせた日本の多軸的空間表現>は平凡すぎた。「多軸的空間表現」とは何なのか。多軸とはふつうは無軸のことである。基準軸を持たないことである。みんなに合う洋服とは、誰にもぴたりとは合わない洋服を売るときの宣伝屋の常套文句に過ぎない。「住む風土に合わせて多軸化する」とは、「デザインの基準軸を欠いたままで各自いいと思うようにやる」ことではまさかあるまいか。
 日本に「天」の思想は根付かなかった。日本において「天」は日が射し雨が降って穀物を毎年約束してくれる、ありがたいが、ただの「空」である。永劫動かぬ北極星のように、動いてはいけない倫理を定めるものが天の理であるとの考え方は、儒教の伝来以来、少なくとも民の心を打つことはなかった。森が立ち枯れるような旱魃も、捕虜を熱湯につけるフン族のような残酷さも経験したことがなく、島国の民衆は幸も不幸も「それなりのもの」だった。天測にもとづく厳格な線を地上に引いて逸脱を許さないというのは、規範はゆるきを以って貴しとする生活感情にはなじまぬものだった。
 「天」に代わって日本に根付いたのは「血脈」の連続性だった。途中で純血の系図が疑わしい事態が起きても外見としてのシステムが稼動しているように見えれば、「疑わしい事態」は疑ったほうがおかしいということになった。貴族も武家も、政治屋、政治家も、大小の財閥、茶道、華道、歌舞伎役者、医者、TVタレントまで、その商売が何代続いているかこそ、当の本人の能力とはまた別の「純血の聖性」を証言するかのようである。その商売の世界では一つの血脈ごとに「聖性」に微妙な差異があるとされ、血脈のトップは何階層もの弟子を束ねる集団のボスであり、上位者はそれぞれ下位の者から朝貢される独特の流派社会を作り上げた。他流試合は原則として「はしたない」とされ、コンペティションは同じ流派内で儀式として行われた。
 眉をひそめさせる言い方をあえてすれば、意味のはっきりしない「多軸的空間表現」とは、建築デザインの世界に「血脈=精神の無窮性」を持ち出して、ただ世界最古であるゆえに世界文化遺産である木造寺院に、あたかもデザイン上の聖性があるように見せかける言い方である。この論理は、町内役員会から利害を同じくするものだけの会社役員会、そして永田町、霞ヶ関まで、毎度おなじみの緊張欠如の連鎖を追認する「日本的なるもの礼賛」にすぐに成り果てる。その場では、誠実な各個人が「いいと思って進める」ことが「調和を重視する空気」の中で粛々と進められるのだが、その調和は「ご時勢という意向」に必ず取り囲まれている。ムラで、会社で、業界で調和を重視して決められることが、社会全体にとっていいことであるとは限らなかったのは、わが国では証明済みのはずである。
 著者は聖徳太子信仰が情報操作によって成り立ったことを認めながら「それは太子にカリスマとしての素地があったからだ」とする。しかし贔屓の引き倒しという言い方もある。「その素地とは、自らが養われていた僭主・馬子の行動を見て見ぬふりしかできない人格素地であったのだろう」という問いに対しては、どんな反論ができるのか。


 法隆寺中門の真ん中の柱の建築デザインの必然性について、「五重塔と金堂の視覚的重量バランスの不均衡をなくす絶妙の錘である」といわれても、偏狭な私から見れば、(金堂もそうだが)建築全体に対する屋根・庇の大きさは異常である。先例以外に基準軸を欠いた伽藍配置に「聖地の緊張感」はなく、大陸に対し誇るべきものなきを恥じる建築家が一棟ずつ内向きにデザインしたとしか映らない。備えるべき敵は雨露だけだったのんきな国の植物的・他律的デザインである。