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中田 力 「脳の中の水分子」

 p49
 液体の水は、単純な水分子の集合体ではない。水分子、ヒドロニウムイオン(H3O)、水素イオン(H)、水酸化イオン(OH)などが大小さまざまなクラスターを作り、ブラウン運動によって動き回っている複合体である。
 p53
 キセノンなどすべての全身麻酔薬には、この水のクラスターを安定させて小さな結晶のようなもの(ヒドロニウムイオンなどの結晶水和物)を作らせる作用がある。全身麻酔の強さは結晶水和物の作りやすさに比例する。
 p57
 全身麻酔による不感覚とは、局部麻酔のように単に感覚の麻痺が起きるのではなく、大脳皮質の情報処理機能すべてが抑制されることにより起きる。それは意識そのものを押さえ込む作用である。
 p27・33・91・95
 メッセンジャーRNAに書かれた塩基の符号は三つずつの組み合わせとして解読され、それぞれが一つのアミノ酸に対応している。リポゾームはそのアミノ酸をつないでタンパク質を作り上げる。DNAの遺伝子情報が直接支配しているのはここまでである。「氏(うじ)」を示すDNAにはどのようなアミノ酸の連鎖をどれだけ作れ、としか記載されていない。
 一次元のアミノ酸の連鎖のままでは、生体として機能を持てない。生体において特殊な機能を持つためには特殊な三次元形態を持つ必要がある。機能とは形態のことなのである。肺胞はあの形態であるからこそあの機能を持っている。しかし、どのような形にならなければならないかとの命令はだれからも来ない。つまり三次元構造体を作るべき特別な制御装置は存在しない。シャペロンという、他のタンパク質分子が正しく三次元化して機能を獲得するのを助けるタンパク質群があるが、このシャペロンの発現そのものも周囲の温度などが関係した自動プロセスである。
 未熟なタンパク質は、リポゾームから放出された瞬間に、人の細胞に満々と湛えられている水に出会う。この水の環境の中で、「マルコフ連鎖」の原理にしたがってアミノ酸の連鎖は自動的に折りたたまれ、タンパク質の三次元構造体に自己形成を始める。ここから「育ち」がはじまる。
 マルコフ連鎖は生命体を「自己形成」として理解するための重要な基本原理である。自己形成とは雪崩みたいなもので、自分の重みで自然に滑り始めた雪は周りを自分の方向に全部ひきつけながら走ってゆく。分化を始めた生命体はそのように勝手に、自分で、周囲を巻き込みながら三次元構造を作り始めるのである。いったん海馬になろうしたものが、途中で小脳に変更されることはない。滑り始めのスイッチは自然に入るので、そこには目的意識があるように見えるが、そういう神話の世界ではない。複雑系のなかで構造をつくる自然界の極意がここにある。
 なだれ現象は、脳のひだの多さが脳の大きさに比例することにも現れている。脳が大きな球形の臓器で、中心から表皮質までの距離が大きいために、マルコフ連鎖の時間が長く、そのぶん自己形成がどんどん複雑になるからである。小さなネズミの脳はほとんどひだがなく、クジラは人間よりひだが多い。知能の高さはひだの多さに比例していないが、哺乳類はもともと生きるに十分な知能を持っている。
 p163
 活動を続けるとどんどん溜まる脳内の負のエントロピーは、胎児の脳形成終了と同時に消失する特殊な細胞の乾燥痕跡を「放熱ダクト」として使い、放散される。脳の構造は、それ自身が脳皮質全体の最も効果的な冷却装置となっているのだ。脳は実質的に球状であるから、この熱放散によって、ニューロンがランダムに発火しているような状態が脳皮質全体で持続する。これが「意識」であり、脳が情報を受け入れる準備のできている覚醒した状態である。
 一方、全身麻酔薬は、水分子、水素イオン、水酸化イオンなど大小さまざまなクラスターの形成を促進し、ニューロンを保護するスポンジ状緩衝材の中にこのクラスターを流して、水の含有量を調節する。そのことで熱放散=エントロピー放散が抑えられ、脳皮質全体のニューロンの発火=意識が押さえ込まれるのである。だから患者には大きな負担となる。
 
 (p150)
 (ヒトの小脳新皮質の進化は、非線形微分不能)制御と呼ばれる特殊運動能力をもたらし、二足歩行や言語機能を生んだ。言語がコンピュータの線形制御とまったく異質のものであることは自明だろう。ヒトと同様に、発達した小脳を手に入れた鳥類も、自由飛行と音楽を手に入れた。鳥は、高度な内容こそ伴わないが、ヒトと同じ言語を発することができる。)