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小坂井敏晶 「責任という虚構」

 「責任という虚構」の論旨は、書評の通り犀利である。筆致は簡潔であり、在仏30年の著者らしく Ce qui n’est pas claire n’est pas francais. の明晰さが心地よい。
 p22
 人の行為は意志決定があってから遂行されるという、デカルト以来の近代西欧合理主義の基礎にある「理性的自己」の像が、ベンジャミン・リベットが一九八〇年代に行った有名な神経生理学実験によってあっさり否定された。
 リベットが行ったのは、被験者に「好きなときに手首を動かしてもらう」というだけのシンプルな実験である。いつ手首を動かすかは被験者のまったく自由であり、われわれの常識は、まず手首を動かそうという意志が起こり、次に手首を動かすための信号が関係器官に送られ、少ししてから最終的に手首が動くと考える。
 しかし実験では、まず手首を動かす指令が脳波に生じてからしばらく後に「意志」が生じ、そのまた少し経ってから手首が動くという結果になった。
 具体的に言うと、われわれが「自由に」手首を持ち上げるとき、実際には、運動を起こす神経過程と「動かそう」という意志を生成する心理過程が、同時に作動し始める。ところが、行為と意志を生み出す無意識信号が脳内で発生してから、運動がおきるまでには五百ミリ秒かかるのにたいして、意志が生まれるまでは三百ミリ秒しかかからない。この二百ミリ秒の差があるため、意志が行為を引き起こすのだという錯覚がうまれてしまう。実際は意志の三百ミリ秒前、運動の五百ミリ秒前に無意識の行為遂行指令が出ているのである。この、行為遂行の脳内信号が意志に先行する構図は発話を含む人間の<すべての>行為に共通であり、ベンジャミン・リベットの実験は哲学と心理学の世界に激しい衝撃をあたえた。
 p143
 カントは「実践理性批判」において、もちろん違う文脈の中でだが、リベットの実験結果と似たことを書いているそうだ。「私が行為する瞬間において私は決して自由ではない。私に自由にならないものによって、私の行為はいかなる瞬間にも必然的に規定されるからだ。すでに予定された秩序にしたがって次々と無限に続く出来事群の流れを私は追うだけであり、わたし自身が自らできごとを開始することはできない。無限に続く出来事群の流れは自然界における連鎖だから、私の原因は決して自由ではない。」
 p149
 「行為」と「行為ならぬもの」の区別の基準を、意志の作用という過程に求める考えが広く行われてきた。しかしこの考えでは、我々が他人のすることについて、当人の証言を待たず、もちろんその人の心の中を覗き込むこともせずに、「行為」と「行為ならぬもの」の区別を迷わずつけているのはなぜなのかが、説明できない。「行為」の定義的基準とされる意志過程なるものは、あらかじめ「常識の了解」によって人間の営みの背後に「ことさら仮定された内的過程」であり、たいていは「架空の存在」である。
 要するにわれわれの行うことは、物理的、心理的な現象としてもつ一定不変の特徴のゆえに「行為」と呼ばれるのではない。「行為」の概念は、規範、責任、価値といった人間理解の枠組の一角をなす重要概念と密接な関係にあり、これらの適用対象でもあると考えることなのである。
 p164−6
 犯罪は行為の内在的性質によって規定されるのではない。社会規範に違反すること、が犯罪の定義だ。(だから、戦争のとき殺人は犯罪ではない。)
 犯罪という「悪い結果」は「悪い原因」によって引き起こされるという、暗黙の了解がある。社会がどこか狂っているから犯罪が生ずると我々は考えやすい。しかしこの因果律常識は発想の出発点からまちがっている。社会には規範から逸脱するものが必ず存在する。犯罪は多様性の同意語だからだ。
 すべての構成員が全く同じ価値観に染まることは、クローン社会でさえ個体の発生・生育の空間的環境は多様になるから、ありえない。犯罪とは規範からの逸脱なのだから、犯罪の起きない社会はありえない。犯罪は多様性という社会の健全さを保証するバロメータとさえいえる。
 p190−191
 動植物、子供や精神病者などに対する奇妙な処罰慣習が各共同体固有の世界観に起因するように、時代が進むにつれて正しい責任概念に近づくという進歩史観も、単に現在の我々の世界観を反映するに過ぎない。子供や精神病者などに対する処罰の理由を精神科学の未発達や個人の未分化に求めるのは、意志によって行為が引き起こされるという、行為と責任の近代合理主義的構図を踏襲するからである。
 善悪の基準や処罰体系の根拠は、人類社会全体に共通する「集団性」それ自体に求めなければならない。犯罪とは社会あるいは共同体に対する侮辱にほかならない。だから社会秩序が破られると、それに対して社会の感情的反応が現れる。社会構成員の怒りや悲しみを鎮めるために、犯罪を象徴する対象が選ばれ、それを破壊しなければならないのだ。
 p228−9
 ポリアの壷に似た思考実験がある。箱の中に黒い玉と白い玉が一個ずつ入っており、中を見ないで箱から玉を一個取り出した後、同じ色の玉を一つ加えながら箱に戻し、数百個たまるまでこの作業を行う。一度目の実験では白玉と黒玉の割合は、(例えば五百個ほどたまった時点を仮に考えると)まるで世界秩序が最初から定まっていたかのように一定の値(=定点:たとえば約三百五十対約百五十)に収斂し、実験をそのまま続けても値はほぼ変らない。しかし黒玉と白玉一個ずつの状態に戻して実験をやり直すと、(同じく五百個ほどたまった時点を仮に考えると)今度は先ほどとは違う値(たとえば約三百対約二百)に収斂する。今回も定点に収斂してシステムが安定するのは同じだが、箱の世界が実現する真理(収斂する値)は異なる。どんな値に収斂するかを前もって知ることは誰にもできない。
 われわれの世界に現れる真理は一つであっても、もし歴史を初期状態に戻して再び繰り広げることが可能なら、そのときにはまた異なった真理が現れるだろう。しかし歴史はやり直しが聞かない。そのおかげでわれわれは一回限りの「真理」を手に入れる。
 時間が経ち、システムが或る状態に収斂する。現在から過去を見れば、システムが変遷した道筋は一義的に同定される。だから最初から現在の状態が決定されていたかのように見える。しかし歴史は白・黒の玉の入った壷に似て意味のない数字の羅列に等しく、その道筋を何らかの法則に還元できないから、到着点に至る道筋の情報量を(繰り返しを含む冗長プログラムのようには)圧縮できない。歴史は実際に生ずることでしか、その姿が明らかにならない。外側から明らかにしようとする姿勢には価値意識の混入を疑わなければならない。