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井筒俊彦 「意識と本質」 1

 「あの人の本性は一体何か」、から、「生命とは何か、神とは何か、貨幣とは何か」、まで私たちはそれらの「内部にあるように見える」モノについて見極めようとする。いわゆる「本質」を見ようとする。しかしその「内部にあるように見えるモノ」は決して物質的実体ではないことには気がついている。命もおカネも神も人物も「本質」が物質的実体でないことは誰でも知っている。ギリシアの哲学も世界のどの宗教も「本質」が物質的実体でないことは教えてきたが、ではそれが何であるかは誰も教えてくれなかった。
 少なくとも表層意識が問う知識論としては、洋の東西に関わらず、それを問うこと自体がナンセンスであるとさえ言ってきた。物質的実体でないモノを問うことはイデオロギーであるというのが、制度としての宗教や目的論の混じった科学や経済学に悩まされてきた、良心的な人々の節度ある姿勢だった。しかしその姿勢は果たして正しいだろうかと、日本よりもフランスやアラブ世界で著名な宗教哲学の泰斗である井筒俊彦は本書で言う。
 意味や価値の「流通」という概念を媒介にして、言語と貨幣はともに「信用均衡」という強い構造的親近性を持つことが明らかになってきた。平らに言えば言葉も貨幣も流通するから言葉であり貨幣であって、流通しなければ騒がしい音と紙切れに過ぎないということである。生命そのものについても、固定的な「生命体」を考える人は誰もいなくなり、微分的時間の中での分子の「出入り均衡」状態こそが生命という現象であると捉えられ始めた。
 そして実はこのことは現代になって初めて明かされたのではなかった。井筒俊彦は、私たちの意識のきわめて奥深い構造を解明しながら、そうしたことを語ってくれる。

 P8−20
 経験界で出合うあらゆる事物、あらゆる事象について、その「本質」を捉えようとするほとんど本能的とでも言っていいような内的性向が、誰にでもある。
 この「本質」喚起的機能にうながされて揺らめく意識を仏教では「心念」といい、もっと否定的な形で「妄念」と呼ぶ。言語のこの側面を指して、大乗仏教の教義を要約した「大乗起信論」は「一切の言説は仮名にして実なく、ただ妄念に随えるのみ」と説く。全ての言葉は本来、仮りに立てられた徒なる名前だけであって、それに対応する「実」とか「本質」があるわけではなく、ただ妄念の動きにつれて起こってくるものである、という意味だ。
 ここでは言語が妄念の所産という形で提示されているが、むろんこの関係を逆にして、言語の働きで妄念が起こるといっても同じことだ。ともかく、言語と妄念とがぴったり表裏一体をなしたものが、われわれの普通の経験世界であり、そのような世界を無数の「本質」で一杯になった実在界として認知する意識が、われわれの「日常の意識」の次元、つまり表層意識である。
 サルトルの名作「嘔吐」の主人公ロカンタンは「私がいた公園のマロニエの根はちょうどベンチの下のところで深く大地に突き刺さっていた。それが根というものだということは、私の意識にはまったくなかった。あらゆる言葉は消えうせていた。・・・たった独りで私は、全く生のままのその黒々と節くれだった、恐ろしい塊に面と向かって坐っていた・・・」と語り始める。
 言葉をロゴスと捉えるキリスト教文明の人であるロカンタンは、このときすでに、日常の明澄な言葉を失い始めている。しかしそれは経験界での言葉を失っているのであって、すべての言葉を失う無分節の「存在=黒々として薄気味悪い塊り」の前に突然立たされる準備ができていたわけではない。だから彼は「ねばねばした、目も鼻もない不気味な存在」を前にして狼狽し、「嘔吐」するしかなかった。

 P22
 すべての事物が独自性を失った状態、すなわち「空」を背景に、あらゆる存在者が縁起によって成立するもの、相関相対的にのみその存在性を保つものと考えれば、「本質」はほんとうはないものとしてその実在性が否定できる。
 A とBという二つの「もの」が始めから自性的に、すなわちそれぞれが自分の「本質」を抱いて実在している、というのではなくて、縁起的自体が先ず経験的に成立し、その事態が人の「意識」の面に映るとき、意識は語の意味を手がかりとして、そこにA とBという二つの「本質」を分節し出すということである。
 P24
 しかしながら大乗仏教の形而上的体験における空には、「真空妙有」という、あまりに使い古されたゆえにいささか色あせた感のなくもない有的局面がある。「本質」が実在しなくとも、「本質」という存在凝固点がなくとも、われわれの生きている現実世界には、またそれなりの実在性がある。「本質」はないのに、事物はあるのだ。
 P25
 他によってのみ存在性を保つ、絶対に自立することのないあり方を説く縁起の理論だけでは説明しきれないような手ごたえが、この現実の世界でわれわれが実際に交渉する事物には、たしかにある。大乗仏教の数ある流派の中で、この問題に真正面から、実践的に取り組もうとしたのが禅である。
 禅は「本質」など絶対に認めない。「本質」が分節する存在者の世界は妄想に浮かぶ仮構に過ぎない。それなのに、現実の事物にどっしりとした手ごたえがあるとすれば、それはもともと、「本質」を通した存在分節のほかに、いわばそれと密着して、それとはまったく異質の、「本質」ぬきの分節が生起しているからであるに違いない。「本質」に依る凝固性の分節ではない、「本質」ぬきの流動的な存在分節を、われわれ一人一人が自分で実践的に認証することを禅は要求する。
 P27
 われわれの側で、表層意識が深層意識に転換し、さまざまな存在的「現われ」が払拭され尽くせば、当然、一切の事物の幻影のような姿は消えて、絶対無分節の実在者そのものが了了と現われてくる。深層意識の立場からすれば全ての事物は実在性を欠く虚妄のまぼろしにすぎないけれど、それらがすべて絶対無分節者の「名と形」的な歪であり、その限定的現われである限りにおいて、一切の経験的事物にはある種の実在性が認められなければならない。
 P31
 「有無中道の実在」つまり、「あるとも言えずないとも言えない」この特殊な存在領域は、無分節者が、まだ外的には少しも分節されていないが、内的には、すなわち可能的には、すでに様々に分節された段階であって、無分節者はいわばこの段階で自己のこれからの分節の方向を決定する。あるとも言えずないとも言えない中間的な存在範型、それが存在「限界線」の原形、すなわち「本質」の原初的形態である。言い換えると「有無中道の実在」が、もう一段下位の存在領域である日常経験的世界において「本質」としてわれわれの意識に映るといえる。
 P39
 一方は、人が原初的存在邂逅において見い出すままの事物の、濃密な個体的実在性の結晶点としての「本質」。他方は人間の意識の分節機能によって普遍者化され一者化され、さらには概念化された形でそれらの事物が提示する「本質」。
 P49
 言葉の意味分節機能、すなわち仏教のいわゆる「妄念」の働きは意外に執拗で、意外に根深い。それはたんにわれわれの表層意識にいろいろな名前を通じて定着されている普遍的「本質」の働きを支配するだけでなく、いわば意味的アラヤ識(ひとの言語的認識の無意識内貯蔵域)とでもいうべき形でわれわれの深層意識の構造までも規定している。アラヤ識に「薫習」された意味的単位の「種子」は、われわれの意識が深層領域でゆらめけば、たちまち「本質」喚起的に働き出す。