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井筒俊彦 「意識と本質」 5

 p273
 「神以前」の無から出発するユダヤ的マンダラとも言える)セフィーロート体系はそのまま外に進展して世界を構成していくのではなく、むしろ内に向かって、神の内なる世界を構成していく。つまり神自身を内的に構造化する。セフィーロート体系の有機的連関が神そのもの、あるいは神の内的世界なのである。
 p277
 ユダヤ修行僧カバリストの瞑想体験の深まりの極処には意識の絶対無化が現れる。事物の側から見れば、経験的事物の「元型・本質」であるセフィーロートまで含めて、一切の事物の完全な無化である。だが、カバリストたちにとっては、神のうちなるこの絶対無はセフィーロートの太源として、有の充実の極点でもある。カバリストは、この方向に進むことによって宋代儒学の「無極にして太極」、仏教の「真空妙有」「空即是色」といった無限の有的展開可能態を考える、東洋哲学一般に共通するひとつの根源的パターンの軌道に乗るのである。
 この軌道こそ、文化アラヤ識の構造に深く規定された「世界像の分節の仕方」そのものである。カバリストが聖書表層の人格神の奥底に置いた根源存在は、その非人格的絶対性において、明らかにインド哲学の「梵」(ブラフマン)に近い。
 ブラフマンと存在世界は、人格一神教の思想体系におけるような二項対立にあるのではない。全てはブラフマンなのであり、ブラフマンに対して「他のもの」は存在しない。現実の我々にブラフマンが見えず、逆に千差万別の事物だけが見えるのは、無数の稠密な「かぶせ」の網の目がブラフマンの広がりの表面を覆っているからである。
 「かぶせ」とは、いわゆる客観世界を、ひたすら人間的である有意味性の宇宙に見せかけるために、人間がみずからの原初的機能によって作り出した「取り消し可能な誤認・見まちがい」の機構である。全存在世界は、無数の「かぶせ」の錯綜する糸の織り出すひとつの巨大なテクスト(テクスチュア)である。(マーヤー的世界認識 p435)
 絶対無分節者または神は、平板に言えば「宇宙のありかた自体」と捉えることができる。そうすればいくつかのことが説明できる。
 1 神はなぜ全知全能であるのか
 「すべてが入っているもの」こそ、宇宙の別称である。宇宙内のすべてのモノやコトの「ありかた自体」が神なのだとするのだから、神は他者としてそれらの外に立つことはない。時間の地平を越えてもそれらの「ありかた自体」は定義上変化し得ないから、彼はすべてを知りすべてをなしうる全知全能でしかあり得ない。
 2 なぜ天にいるか
 天には星ぼしが輝いており、その運動には一定の法則が明らかに感じられる。法則の支配こそ神の第一の力であるからには、その身に最も近いと思える天界こそ住処と考えるのは信仰者にとって自然である。
 わずかな過ちは法則を人格神が「創った」と考えたこと。どんな「ありかた」も許容される宇宙内において、法則は創り・創られるものではない。法則は、世界が分節されたために、「在る」ものである。われわれが分節しなければ法則は存在しない。アインシュタインが分節しなければE=MCCはない。
 理論物理学が発見をめざす宇宙方程式には原理的矛盾がある。始まりの始まりとしての宇宙を描こうとする宇宙方程式は、表現として分節的記述以外にありえず、いったん分節的に記述されればそれは分節を繰り返し、始まりから遠ざかるだけである。記述そのものが永遠に終わらない、という思考実験の難題があらわれる。
 3 「宇宙のありかた」は運命論ではない
 「宇宙のありかた」の考え方は、すべてがあらかじめ絶対者によってコードされていることの単なる発現であるとする、諦観に満ちた運命論ではない。すべての生命は、たまたまそこに密度が高まっているアミノ酸分子の、ゆるい「よどみ」でしかない。しかも、それらアミノ酸は、内部のエントロピー増大を回避すべく、一方向の微分的時間軸上で非可逆的に入れ替わっているのだから、存在連関の網はあらかじめ織られようがない。