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リュドミラ・ウリツカヤ 「通訳ダニエル・シュタイン」上

 分厚いヨーロッパ精神地層の基礎にあるユダヤ=原始キリスト教からは、いまだにどの現代哲学も離れることができない。離れようとすれば、哲学の論拠は数学・物理学と論理学以外になくなり、数学・物理学と論理学の普遍妥当性をいったん問えば、それはリーマン予想のように「絶対」からの分節の意義を問い直し、普遍妥当性としての自分自身を疑うことになるという循環論法にたちまち陥ってしまう。「意義」を捨ててしまえばたんなるニヒリズムの泥沼である。
 その古代ユダヤ=原始キリスト教の最良部分の倫理思想を日常の中に実践しようとするユダヤ人神父通訳ダニエル・シュタインの生涯が、東欧・ロシアの反ユダヤ主義の悲惨の描写とカトリシズムの官僚主義批判を通じて語られる。制度宗教の坊主たちには必読の小説である。完成度が高く、翻訳もとてもしっかりしている。

 p35
 エルサレム大学のノイハウス教授は教え子たちが知的柔軟性を持ち、問題を設定したり、それを裏返したり、あるいは問題自体を無効にすらできるようになることを、学習内容に劣らぬほど重要視していた。まさにそのことがマルクスフロイトアインシュタインを生み出す原動力になっていた。
 p46 
 バハーイー教には神の統一、偏見とドグマおよび迷信の拒絶、科学と宗教の調和などの興味深い教義がある。
 p60
 反ユダヤ主義というのは文化レベルや知的レベルに反比例するんだろうな。ポーランドの、土地を持っている農民たちの教育組織である<アキヴァ>のシオニズムは非宗教的だった。ユダヤ教への関心はなかった。ぼくたちはユダヤの伝統、つまり生活習慣だとか、どういう振る舞いが道徳的とされるかといったことを教えてもらい、利他主義、平和主義、寛容、金儲けへの軽蔑を基本哲学として学んだ。
 p67
 一九五○年から六○年代まではガリラヤにもアラブ人がいっぱいいて、多くがムスリムではなくキリスト教徒だった。うちにもアリって子が一緒に住んでいたがもういなくなっちまった。当時はたくさんのアラブ人が働いていたが、今じゃ一触即発の間柄になってしまった。
 p112
 一九六○年でもハイファにはアラブ人のカトリック教会があり、彼らは時間をきめてユダヤ人にも礼拝堂を貸してくれていた。
 p143
 それぞれの民族はキリストへと向かう際、その民族固有の道筋を持っているらしい。フリカ人はヨーロッパ的なキリスト教会を受け入れることはできません。エチオピア教会はキリスト教の東西分裂以前に成立しています。その後に生じたヨーロッパ教会の諸問題は私たちには関係のないことです。
 p146
 「真理とは何か」というローマ軍総督ピラトの問いが単にイエスを窮させるためのレトリックにすぎないことは昔からよく知られています。イエスはその誠実さゆえに、真理とは私であるとは返答できないのを、ピラトは見透かしていました。
 p168
 もともとはイスラムから生まれたドルーズ派の人々はモーゼのトーラーと新約聖書コーランを信仰しています。
 p208
 イエス自身、生後八日目に割礼を施されている。また長じても彼は同時代のラビたちと同じ言語で、同じ例をひきあいに出しつつ自らの教えを述べていたことが証明されている。二世紀まではユダヤキリスト教ユダヤ教が共存し、それぞれの信者はみなシナゴーグで一緒に礼拝を行っていた。
 p225
 イエスに洗礼を行ったヨハネの名声と権威は当時も非常に高かったが、親戚関係にあったイエスは彼に追随しなかった。イエスヨハネと距離を置いたのは、その終末待望論、世界の終わりを激しく追い求める考え方ゆえだったのではなかろうか。イエスが説いた教えはみな、生とその価値、生の意味に捧げられている。そして自身は誰の洗礼もしなかった。イエスの、世界の終わりにこだわりすぎるユダヤ教からの離脱姿勢がみてとれる。
 p249
 厳格な正統派ユダヤ教女性は、髪を異性に見せないようにするため、結婚すると断髪してかつらをかぶる習慣がある。豚の摂食禁止もイスラム同じである。アラーはアブラハムの神でもあるのだから、要は古代ユダヤの律法がイスラムと共有されているにすぎない。
 p285
 ホロコーストによってユダヤ民族は子供たちも健康も財産も奪われ、生きる意味自体を失って灰の中に座るヨブになってしまった。自慢の種だった宝物、信仰心も失ってしまった。神が存在するのなら、自分たちにひどいことをした神を許すつもりはないし、神がいないのなら神について語る必要はない。
 p286
 ユダヤ人は現実から切り離された抽象的な意味での宇宙発生論を思考対象とする。二千年以上の間子供たちにこの論理を学ばせてきた結果、ユダヤ人の頭脳はマルクスアインシュタインのように)活性化された。科学においても社会学においても、この活性化された頭脳の論理が厳密に用いられれば、その活動は、規範側に立つ人にとっては知的テロ行為になりうる。