アクセス数:アクセスカウンター

リュドミラ・ウリツカヤ 「通訳ダニエル・シュタイン」下

 p51
 ガリラヤのラビ、イエス・キリストはたくさんのことを語りましたが、彼が伝道したことの大半を、ユダヤ人は律法としてすでに知っていました。イエスのおかげでこの戒律は世界全体に知られるところとなりました。彼はそれ以前にはまったく知られていなかったことを何一つ口にしていません。
 p105
 偶像の禁忌。出エジプト記申命記に「いかなる形の像もそれを作ってひれ伏してはならない」とある。ここでもイスラムユダヤ教に負っている。
 ユダヤではAC七十年の第二神殿破壊後、この禁忌は多種多様に解釈された。この戒律を墨守した者たちもいた。これがムハンマド一派に伝わった。ユダヤ法は、ひれ伏すための造形は禁止しているが、装飾目的には芸術に携わることを奨励さえしている。
 ユダヤ教は二大原理に立脚している。これもイスラムに引き継がれたきわめて煩瑣な行動の制約と、思考の完全な自由である。知的活動に禁忌が存在しないから、異端という概念自体、ユダヤでは曖昧である。ユダヤ教には公式に決められた教義がなく、宗教問題に関して公認の権威を有する中央機関が存在しない。
 p144
 大がかりな霊的生活を営んでいる小さな人々をわたしは何人も見てきました。そういう人は霊的生活をしても、大抵の場合は大して深くない自分の心を掘り返すだけに終わってしまいます。
 p169
 わたしが三位一体の信条を唱えることができないのは、それがギリシアの言葉であり、ギリシアの詩であってわたしには無縁のメタファーだからです。四世紀より前には三位一体のことなんてそもそも語られてさえおらず、福音書には一言だって触れられていません。
 多神教信者のギリシア人が関心を持っていたのは哲学的な概念構築であって、唯一神ではありません。すわりのよい概念を構築するには三つの位格が最適だったのでしょう。でもいったい位格って何なのですか。
 p178
 イエスはこれこれのものを信じなさい、だとか、こういうふうに信じなさい、などと言うことはない。彼は、行ってこれこれをしなさい、と言うんだ。まさしく、モーゼの戒律にしたがって行動しなさい、とね。
 p179
 どうしてローマは「母なる教会」と呼ばれるのだろう。パウロがいつもユダヤ人たちと一緒に祈った原始キリスト教会に比べれば、ローマは「妹なる教会」じゃないか。なぜローマにひれ伏さなきゃならない。教会がユダヤ人抜きになるなんて、パウロは想像もつかなかったはずだよ。
 p272
 あなたも祈りなさいと言われた、愛する人全員を自分の手のひらに乗せて、それを神様のほうに持ち上げるところをイメージするようにって。それで十分だって。
 p303
 彼の最初の弟子だった十二人の使徒は、ある意味でユダヤ教プロテスタントでした。キリストは新しい教義は作りませんでした。その教えの新しさは、愛を律法よりも上に位置づけた点にありました。