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平野啓一郎 「決壊」 1

 毎年ノーベル賞候補になっているらしいベストセラー作家を超えて、日本の今世紀最大の作品ではなかろうか。売上部数ではかなわないだろうが。その人にあったような、伏線の未解決や登場人物の俗悪な台詞もまるでなく。主人公の錯乱と自殺の悲劇も確かな納得性がある。現代生理学の理解も、解決不能状態に陥っている精神医学の現実もシリアスに踏まえて。ドストエフスキーのようにキリスト教が絡まない分、頭を余分に使う必要が全くなかった。
 作中の「悪魔」はドストエフスキーの悪魔と寸分違わないが、ドストエフスキーの悪魔が、悪の内在を自覚した人間がその内在に耐えられないため、「不在状態」として人間の外に作り出した神を憎むのに対し、作中の「悪魔」が憎むのはわたしたちが「内側に作り出した神=幸福」である。
 近代までわたしたちは、外在する神に対しどんな犠牲でも払うべきであったのに対し、その神はいつの間にか無自覚なわたしたちの内側に「待望する幸福」に形を変えて入り込んでしまった。相手が変ったことに気づかないわたしたちは、いつか来る幸福ために現在の犠牲をよろこんで耐えている。彼岸の情景にも似た「家族の幸福」を目指さないものは人間ではない・・・・・これが「経済」以外に教祖も人格神もいない新しい制度宗教でなくてなんだろう。
 美しい小説ではない。漱石「明暗」のように、揚げ足の裏を掻き、先読みしすぎて後悔するという言葉の弄びかたも形式が整っていて、正確だが読む人の胃にはまともな重圧がかかる。
 サスペンス小説としては、主人公・沢野崇は、出来の悪い「遺伝と環境の格差社会の最下位にある」弟・良介を惨殺した首謀者であるかもしれないとして、読者をしばらく引っ張る。ハンドルネーム666は弟・良介の子供お気に入りの「仮面ライダー555」から採ったのかもしれず、沢野崇の女友達の一人で最も「社会の中で生きている」山上佳乃も、馬鹿馬鹿しいと思いつつも疑いに揺れる気持ちを抑えきれない。555と666は、平野が読者の混乱を意識して張った奇妙な謎かけである。
 良介と妻、一人息子の幸福な家庭生活を描く平野の力はすでに大家の域にあり、良介が「悪魔」に首を切り落とされて数ヵ月後に母子が自宅の風呂場で交わす会話に、目が熱くなるのを感じた。本を読んだときとしては数十年ぶりではなかったか。
 彼には弟惨殺の動機がまったくなく、犯人ではないのだが、彼は四十四日間の未決拘留中、刑事という陰湿なイヌの迫害に耐えなければならない。その四十四日の間に父親が自殺し、母親が心労で廃人となり、良介の妻に犯人と確信され、代用監獄の中で刑事に「父親の自殺はあんたのせいやで」と罵倒され、他の女友達にも「ひょっとして、ゴメンね」と疑われて、人格障害の何たるかを知悉している彼自身がその障害に陥ってゆく。
 かつては深い精神的信頼関係にあった弟の妻も、やはり「家族と子どものための幸福宗教」の平凡な一信者にすぎなかった。その信頼していた彼女が彼を疑うとすれば、彼が普段の高級公務員生活の中で無理にも信じようとした「世界の人間的な価値」はやはりpermanent fatal errorsであるとしか考えられず、彼は自殺するしかなかっただろう。彼女ら「善良な一般社会の疑い」をそのまま引き受けるかのように。信頼する彼女の疑いは、彼の社会的生命に致命的だった以上に、かろうじて自分自身を世界につなぎとめている「意味」をあっさり無にしてしまうものだったのだ。