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TVから 「国会議員が『暴力装置』を知らない国」

 先月の十八日、官房長官自衛隊を「暴力装置」だと「失言」したとき、野党女性議員(一九七一年生)は「われわれの平和憲法を否定するものだ」として官房長官発言に抗議したという。
 国家が一側面に暴力装置を抱えていることは常識である。警官は拳銃を持っているし犯罪人は収監されなければならない。軍は敵を殺さなくてはならない。「暴力装置」という言葉はマックス・ウェーバー『職業としての政治』に由来するが、人の自由を奪う仕組みを「暴力装置」と呼んだだけで、そこに良い悪いの価値判断はまったく含まれていない。
 一般国民はマックス・ウェーバーなど知らなくていい。しかし国会議員政治学の初歩を知らないなら、顔を真っ赤にして恥じ入らなければならない。知っているなら、対北朝鮮の日米軍事演習を行う自衛隊暴力装置ではないと証明しなくてはいけない。「災害救助に活躍する自衛隊の皆さんを暴力装置呼ばわりするなんて」と悲憤慷慨するのでは、自分は東大卒だが社会人としてはただのヒステリー女です、と自白しているようなものである。外国の職業政治家に鼻で嗤われる素人議員に、国のまつりごとは負託できない。
 昔々、一九六〇年の安保条約改定のとき、国会議事堂を取り巻くデモ隊と機動隊の衝突で、樺美智子という女性が死亡した。戦後のデモの中で死者がでた最初で最後の事件だった。大新聞がこぞって岸内閣打倒の論陣を張るなか、彼女の死の扱い方は狂熱的で「虐殺」という文字が飛び交っていた。
 数万人が国会を取り囲むことは、国民が支配者に正面から戦いを挑むという日本史上初の革命行為だったが、しかしそこには、政治的世界では顔を出してはならない、機嫌の悪い大人に取り囲まれた子供のような、精神的幼さがみっともない形で露呈していた。それは「怯え」の裏返しでもあったし、そのさらに二十年前、独ソ不可侵条約が結ばれた際にわが国政府が「天地の不可解なり」との公式メッセージを出して、世界の失笑を買ったナイーブさとも、底で通じていた。権謀術数を旨とする国際政治の舞台の上で「条約の意味がわかりません」と洩らしてしまうのでは、以後「日本、くみやすし」との印象を与えてしまうのも無理はなかった。生まれたままのような赤心が通じるなら、どの外国の政治家もあのような食えない顔にはならない。
 革命とは支配者から権力をはぎ取ろうとすることだ。権力は圧倒的な暴力装置なのだから、向かってくる相手の力に応じて装置の一部を使用する。国民が政府に「意見は聞いてください、武力は使わないでね」というのは小学校社会科の「民主主義ごっこ」のルールとしてはいいだろうが、これを世界注視のデモの場面に応用してはいけない。
 女性が死んだのは偶発情況の中で仕方のないことだ。彼女個人は気の毒だったが、警官が怒りにまかせて八つ裂きにしたのでもないし、あの騒ぎの中で一人の死者しかでなかったことこそ、奇跡ではなかったろうか。
 冷静な分析を怠って、彼女の死にすべてが集約されているような記事が載るたびに、世界の中で日本の「進歩的」知識層の青さが浮き上がった。一人や二人の死者は、かわいそうだが、醒めた政治の世界では問題ではない。平和憲法暴力装置は、看守の平和な人柄と死刑制度が関係ないように、無関係である。