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ジャック・ロンドン 「荒野の呼び声」

 よくできた「野生の悪」の物語。オオカミに匹敵する体力を持つ犬橇のリーダー犬・バックを徹底的に擬人化して書きながら、その無残な世界は作為を感じさせない。ジョージ・オーウェル1984年」に強い影響を与えたらしい。たしかに前面に出てくる動物の暴力、生存本能の描き方はなんとも暗く希望がなく、読む人を滅入らせてしまう。
 訳者のあとがきに「残忍性への嗜好、力の崇拝、弱者への侮蔑、適者生存思想などが随所にうかがわれる。これがアメリカ社会の不公平を憤る作家ジャック・ロンドン社会主義イデオロギーとどう両立しうるのか、読者は疑問ではないだろうか」とある。
 しかし、「温和を好み、力を抑制し、弱者を侮らず、適者生存思想を排する」社会主義者というものは聞いたことがない。スターリン毛沢東ポルポトも、それぞれの国のリーダー犬・バックではなかったか。力の抑制、弱者への博愛、共存思想はパウロが(イエスの名を借りて)二千年前に説いた個人倫理の問題であって、二、三の経済思想家が十九世紀に考え出した社会主義イデオロギーとは、生まれた地層の深さが違う。ロシア人や中国人が「腕力に頼らず、周辺小国との共存を優先する」と言ったら人に笑われる。当然ながら訳者はオーウェルを読んでいるのだが、「1984年」や「動物農場」に何を読んだのだろう。
 野生に憧れる猛々しいバックの「思想」がモッブ(社会のクズ)のような矯正しがたい者の個人倫理に巣づくることがある。その男が右翼や擬似宗教の頭目の場合「力の崇拝、弱者への侮蔑」は政治的ドグマに変わる。その男が傑出したデマゴーグであればこのドグマは洗練されたものになり、(ハナ・アーレントの言う)何層ものシンパサイザーの「悪のファサード構造」に隠されて、一般人には真意が見えにくいものとなる。
 民衆のすぐ隣りには「悪」の最外層があるのだが、その最外層のシンパサイザーと自分たちのふだんの親近性に邪魔されて、無邪気な一般民衆が気づくのは難しい。近所の少し無口な高校生が傷害事件を起こしたときも、「あの家のあの子が・・・そんなはずはない」となる。その無邪気さの隙を「体制」に衝かれ、迎合メディアに教育されて生まれる、家族や友人が密告しあう「1984年」の世界を、オーウェルは絶後の恐ろしいタッチで書いた。
 「荒野の呼び声」は人間との関係を絶った犬がオオカミを率いるようになる暴力世界であり、人間が掘り出した砂金は、その人間がオオカミに食い殺されることで地中に戻ってしまう(p154)。つまり砂金に象徴される人間のなんらかの知的営みは否定され、原始の力が勝利する。
 パックは暴力世界からの「呼び声」に突き動かされており、その意味で「荒野」は一九三〇年代のナチスドイツの「力の原始社会」である。巻末で暗示されるパックと野生オオカミの混血種は第三帝国の輝ける未来を担うヒトラーユーゲントである。