アクセス数:アクセスカウンター

トクヴィル 「アメリカの民主主義」 1

 十九世紀のフランス中級貴族が書いたアメリカ(人)論の古典である。アメリカがなぜヨーロッパ諸国を出し抜いて世界最強になりえたのか、今没落の兆しが見えているのはなぜなのか、明るいアメリカ人が時々狂ったように獰猛になるのはどうしてか・・・、フランス人らしいとても読みやすい短文の連続で、頭の中をきれいに区画整理してくれる。
 第一巻
 p70-71
 イギリス系アメリカ人によるニュー・イングランド建国者たちにあっては、政治の原理も法律や人間の諸制度も、意のままに方向を変え、組み替えられる可塑的なもののように思われる。
 彼らの生まれた社会の周囲にはりめぐらされていた障壁は、彼らの前で崩れ去る。何世紀もの間世界を導いてきた古い意見は消えてなくなる。そこにはほとんど限りのない道、果てしのない土地が姿を現す。人間精神がそこへ突進し、あらゆる方角に走り回る。
 だが政治の世界の極限に達すると、(イギリスの中産階級から出た彼らの)精神はひとりでに立ち止まる。精神は恐れおののき、自らの持つ最も恐るべき力を行使することをやめる。懐疑を捨て、改革の必要を放棄する。敬虔にも真理の前に身を屈して、議論なしにこれを崇める。
 かくして、道徳の世界ではすべてがあらかじめ整理、予見され、決定されているが、政治の世界では何事も異論が挟まれ、不安定である。一方には受動的な服従があり、他方には独立心があり、経験の無視とあらゆる権威に対する疑念が存在する。
 アラン・ブルームの「アメリカンマインドの終焉」にある「あらゆる意見の相対性」はメイ・フラワー号とともに渡って来た。宗主国イギリスにおける十八世紀のフランス芸術とドイツ哲学の軽視は、アメリカで単純な科学信仰という鬼子に生まれ変わり、最近では「経済サイエンティスト」による金融工学信仰という蛇孫を産んで、世界中に経済災害に撒き散らした。
 政治の原理も法律も自分の意のままに組み替えられることを彼らはひけらかすが、逆にそのために、彼らのあまりの俗悪さがはっきりしたとき、それは(アメリカに引きずられた国でも)社会の危機そのものとなる。自分たちの万能を信じるがゆえにアメリカ人は陽気でいい人なのだが、三億人の彼らはライフルで武装していることを自慢する人たちでもある。

 p85-87
 彼らは仕事で儲けるのと同じ態度で学問を研究し、しかもすぐ役に立つことが分かる応用しか学問に求めない。
 人の心の中には平等への卑しい好みがある。弱者をして、強者を自分の水準に引き下げることを願わせ、自由における不平等よりは隷属における平等を選ばせる。自由は、彼らの欲求の主要で永続的な対象ではない。彼らが変わらぬ熱意をもって愛するのは卑しい平等である。
 p110(&p59)
 イギリスではピューリタニズムの温床は中産階級にあり、移住者の多くも中産階級の出であったから、ニュー・イングランドでは一六九二年、人々がいま住む土地に着いたとき、彼らは完全な(政治)教育を受けていた。母国ではなお身分制度が人をほしいままに差別しているうちに、植民地では同質的な新しい社会が次第に姿を現していた。
 平安と物質的繁栄におおわれたアメリカ、それもニュー・イングランドでは、地域の生活に混乱が起きることは少ない。加えて人民の政治教育はイギリス時代からできあがっているから、人民主権と自治の原点たるタウンの利害調整はたやすい。
 p144
 中央権力というものは、どんなに開明的で賢明であっても、人民の生活をあらゆる細部まで配慮しうるものではない。中央権力が、国民生活の細部にいたる複雑な機構を独力でつくり運営しようとしても、きわめて不完全な結果に甘んじるか、無益な努力のうちに疲れ果ててしまうかどちらかである。
 七十年後と百年後のロシア、中国の失敗は必然であった。帝国主義下の人民の無残な収奪を見たヒューマニストマルクスは、目が怒りに曇らされてトクヴィルのように高踏的になれなかった。マルクスが、日常の中産市民階級間のいさかい、貴族サロンの偽善と退廃、下層市民どうしの罵り合いに体を慣らしておくことができていたら、中央政府が人間生活を細部まで十全にコントロールしうるなどとは、机上論としても書かなかっただろう。
 p147
 ヨーロッパには住民が自分自身を、住んでいる土地の運命に無関係な一種のよそ者とみなしているような国がある。たとえば道路の管理など、村の将来を住民は何も考えない。住民は用益権者としてこれらの恩典は享受するが、所有の意識はないからこれらを改善しようとは思っていない。自分と子供たちの安全が脅かされる事態になっても、手をこまねいて国が助けに来てくれるのを待つのである。
 しかし彼は人並みはずれて服従を愛するわけでもない。脅威が去れば、戦いに敗れた敵をいたぶるように、法律を好んで犯す。その国には公共の徳が枯れたも同然であり、大衆の中に埋没した臣民の平等な卑屈は見られるとしても、市民の姿はない。
 上の数行は、政治は「依らしむべき、知らしむべからざる」ものでしかなく、非特権市民からなる数千人規模の「タウン」が存在したことのなかった日本のことでもある。十九−二十世紀の、私たちが学んだ近代西欧合理主義の「市民」像、自分たちの目と手が届く範囲の空間を「共同所有」し、君主に税を払う代わりに、生存を脅かす収奪に対しては自然法的な抵抗権を担保するという「市民」イメージほど、われわれから遠いものはない。
 マスメディアが「地域からの発信」の必要性を言うことがあっても、恥ずべき過去を持つメディア企業が自治体権力に対する自律的抵抗運動を、倫理的に先頭に立って支援できるはずがない。NPO法人はその非課税制度に暴力団が目をつけているが、カウンターキャンペーンはメディアのどこに起きているのか。