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トクヴィル 「アメリカの民主主義」 2

 第二巻
 p30
 どんな集落にも新聞があり、それぞれがありとあらゆるやり方で政府を攻撃し、また擁護する。新聞の創刊は簡単で誰でも手を出すことができるが、競争のため大した利益は期待できない。特に有能な事業家は乗り出そうとはせず、また数が多すぎるため才能ある書き手の数も足りない。合衆国では、一般に新聞記者の地位は低く、教育は貧しく、その思想表現はしばしば通俗的である。このようなことから、合衆国では最強の堤防をも動かし飲みつくす、あの滔々たる意見の流れを新聞が確立することはない。
 新聞の影響を中和する唯一の手段はその数を増やすことだというのは、合衆国の政治学の公理の一つである。
 p66
 無給の職に就くということは、いつ投げ出してもいい職に就くことである。職には必ず困難が伴うから、それは、いつ無責任になってもいいということである。したがって、責任あるサービスを提供する公務員において無給の職はありえない。「オレは高い給料を取っていない」という顕職の人の言葉ほど怪しげなものはない。
 p79
 古代共和制ローマでは、貧民を救済し、民衆に娯楽や見世物を提供するために、国庫が底をついてしまった。ところが公権力が民衆の手に落ちると、膨大な数の貧乏人は生活のすべてに最善を求めるようになる。主権者の社会の改良の必要は限りなく細かなところにまで及び、自力で生活できない貧民の状態の改善が進められる。いわゆる公共事業が止まらなくなる。
 p93
 成りあがりものの腐敗にはなにかしら粗野で下卑たところがあり、そのために(親戚である)一般大衆も容易にその腐敗に染まってしまう。ところが、大領主の退廃の底には、ある種の貴族的洗練、優雅な作法や洗練された言葉といった、民衆には近づけない精神の薄暗い迷路があり、これがしばしば腐敗の拡大を妨ぐのである。
 p108
 外交は、大事業の細部を調整し、計画を見失わず、障害を押して、断固としてこれを実現することである。秘密の措置を案出し結果を忍耐強く待つことは、民主政治にはなかなかできない。これらはある種の個人や貴族が特に有する資質である。
 ポピュリズムのアメリカはこの資質をいつ身につけたのか。ポピュリズムと貴族的指導の間には、トクヴィルが見出しえないもう一本の隘路があるのか。それとも、まれに見る地政学的有利さが、秘密と忍耐に必要な時間稼ぎを提供したのか。宗主国イギリスの階級社会が、貴族的指導の意味を暗々裏に移民にも教えていたのか。
 p116
 合衆国の指導者たちは、貴族制の国の指導者たちより、その能力、特性において劣る。だが彼らの利害は最大多数の市民の利害と一体化しているから、頻繁に不正を行い、間違いを犯しても、最大多数の市民と終始一貫対立することにはならない。さらに任期があるから、悪い影響は短い在任期間しか及ばない。
 しかし貴族制の国では、公職を預かる人は一つの階級的利害を共有する。それは最大多数の市民の利害とははっきり別物である。そして貴族には任期がないから、二つの利害は次の世代にも持ち越される。
 p121−2
 合衆国の住民はいま住む土地に昨日着いたばかりであり、国家にまつわる過去の慣行や習俗にまつわる祖国愛の本能はほとんど存在しない。しかし合衆国では社会全体の繁栄がわが身の幸福を左右することを(イギリス時代以来の政治教育と国土の豊かさ・大きさを実感することで)民衆が理解してきた。これはごく単純な観念だが、民衆はめったに知ることにないものである。
 p150
 アメリカで私が最も嫌うのは、暴政に対する保障がないことである。合衆国で一人の人間が多数者から不正な扱いを受けたとき、世論にも、立法部にも、行政にも訴えることができない。これらはみな多数者の代表である。警察とは武装した多数者にほかならない。裁判官でさえいくつかの州では多数によって選挙で選ばれるから、不正も不合理も我慢せざるをえない。
 p156
 モリエールは宮廷で上演した作品の中で、宮廷を批判したものである。だが合衆国は、そのようにして自分がからかわれるのをとても嫌う。どんなに有名な作家でも、同胞市民への追従という義務からは逃れられない。もしアメリカにいまだに大作家が出ていないとすれば、原因を他に求むべきではない。天才作家は精神の自由なくして存在しないが、アメリカに精神の自由はない。NHKによれば、超大物作家以外は全米の書店主に対するキャラバンを自分で行うそうである。)
 p160
 アメリカには「いとやんごとなき国王陛下」とへりくだる廷臣はいない。しかしアメリカ民主社会の追従者は主人たる人民の生来の英知、欲するまでもなく自然に備わった徳を絶えず語る。ルイ14世の追従者でさえこのような甘言を並べ立てたことはない。
 p257
 ヨーロッパの貴族の大権、独立した法廷の権威、同業組合や地方の特権、これらは王権の衝撃を和らげて国民の中で抵抗の精神を支えた。これらの政治的諸制度はときに個人の自由に反することもあったが、人々の魂の中で自由の好みを育んだ。
 さらに、世論と習俗――宗教、臣下の王への敬愛、王侯の善意、名誉心、家門の精神、地方の固有意識――これらのものが王の権力を制限し、それを目に見えぬ殻の中に閉じ込めていた。このとき国政は専制的でも、習俗は自由であった。王侯はすべてをなす権利は有したが、そうする力も意思も持たなかった。
 p294
 チェロキー族のアメリカ議会への申し立て。「記憶の彼方の遠い昔に、天にまします我らが共通の父は、我らの祖先にわれわれの住む地を与えたもうた。この土地にはわれわれの祖先の遺灰が含まれているからこそ、われわれは敬虔にこれを保持してきた。われわれはあなた方に質問したい。一国の民として、太古の昔からの占有に勝るいかなる権利を国土に対して持ちうるだろうか。合衆国大統領はわれわれがこの権利をすでに失っていると主張するが、いついかなる時にわれわれはこの権利を放棄したというのか。」
 p296
 先住民に対するふるまいは、手続きと合法性へのイギリス系アメリカ人の執着を表わしている。先住民が野生の状態にとどまる限りこれを独立の国民として扱う。が、(文明人の収奪によって)先住民が自分の土地で生きられなくなると、文明人はその部族が父祖の地を離れて死んでいくように案内する。
 スペイン人は類例のない残虐行為に訴えながら、先住民を絶滅することも、先住民が(混血などによって)征服者の権利を分かち持つのも、防ぐこともできなかった。イギリス系アメリカ人とスペイン人の近代世界統治能力の差ははっきりしている。
 p392
 合衆国では宗教でさえ共和的である。その宗教は彼岸の真理を個人の理性の検討にゆだねるが、それは政治が万人の利益の実現を万人の良識に任せるのと同じである。
 彼岸の真理は、だから万人の利益とほとんど同じ次元に属するし、また万人の利益とは最大多数の利益のことである。最大多数の理性は彼岸の真理の価値をも左右できると考えられている。最大多数が、彼岸の真理に関して「各個人のライフスタイル」を是認すれば、誰も抗うことはできない。