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トクヴィル 「アメリカの民主主義」 4

 p19
 (近代になって車裂きなど残酷な刑罰を行わなくなった)われわれの優しさの理由は、文明や啓蒙よりは境遇の平等に帰すべきである。人民の地位が平等であるときは誰でも他のすべての人の感覚を瞬時に判断することができる。仲間の身体が痛めつけられれば、わが身に苦痛を覚えるのだ。
 これに対して貴族社会の上流階級は、使用人が苦しむということがどんなことかははっきり分からなかった。平等なアメリカにおいて奴隷がむごたらしい仕打ちを受けたのは、奴隷は主人の想像力の及ぶ同胞ではなかったからという単純な事実による。
 p26
 アメリカ人の話しぶりは自然で率直、そしてオープンである。イギリス人のように自分の地位を見せびらかすことも隠すこともなく、何かを恐れている様子もない。
 このアメリカ人はヨーロッパに行くと不安にいらだつ。彼は言い伝えによって、ヨーロッパでは社交儀礼に地位による無限のバリエーションがあることを教えられている。彼は自分がどの階級に所属するかがわからないから、いつも、落とし穴に囲まれた中を歩く男のような足取りで進む。人の言葉を注意深く分析して、密かな当てこすりが含まれていないか、田舎紳士のように気に病む。
 日本に階級制はなく、金持ちと貧乏人の差の穏やかさはアメリカ以上である。その日本人が社交においてオープンでなく、人の言葉に中にあてこすりがないかいつも探しているのはなぜなのか。アメリカ国内で主人と従僕があるのは、職務契約の結果であり、契約の外では主人と従僕は二人の市民、二人の人間である。日本には範囲を限定した職務契約の考え方がほとんどない。会社の仕事で上司であれば、休日のゴルフ場でも上司である。まるで二人は生まれついて主人と従僕であるかのようにふるまう。社交儀礼の無限のバリエーションの中に迷い込み、二人は相手が自分の地位を逸脱していないかについて常に考えている。
 p44
 下種は、人間の卑しさを表わすのに他のどんな言葉でも足りないときの最後の言葉である。貴族階級と同様、従僕の階級にも一流と下種の区別がある。「平等」に覆われたアメリカでは一流の従僕という観念は思い起こせないが、同時に下種の観念も見出せない。
 p63
 貴族階層的に組織された国々では、権力は決して被治者全体に直接語りかけるわけではない。主要な人々を管理すれば、残りの人々はその後をついてくる。このことは家族についても当てはまり、国家は父しか認知しない。息子たちは父を通して把握すれば足りる。
 民主制の諸国にあってはそうではない。政府は、主要な人々しか理解できない観念を使用するのをやめ、平易な制度と法律で一人一人の人間を従わせる必要がある。
 p85
 民主的な時代に生きる人々はみな多少とも商工業階級の、競争を日常とする精神的習慣に染まっている。境遇の平等は理想に背を向けさせ、手近な目標を追わせがちである。平等は想像力を破壊はしないが、それに制限を加え、低空飛行しか許さない。
 仏文学者・生田耕作は戦後の作家は全員くだらないと言ったらしいが、小さな地主さえいなくなり、資本主義の手近な競争環境に全国民がよろこんで組み込まれた日本では、作家の低空飛行は当然のことであった。
 p99-110
 思想が、家庭の利害関心を超えて高まることがない社会で、物質に対する王族のような尊大な侮蔑や洗練された品位を、芸術家の作品に求めても、それはないものねだりである。国民は、必要に追われていないときでも、(資本主義のたくみな差異化が喚起する)欲望に駆り立てられる。彼らにはいつも時間がなく、深く知るより、早く知りたがる。
 p116
 デモクラシーにあっては人はすべて同じようなことをしている。階級が固定していた時代と比べ、彼らの人生は大きく浮かび激しく沈むこともあるが、役者の名前は違っても同じような成功と失敗が繰り返されるので、しばらくするとハリウッド映画のように鑑賞者は退屈する。
 アメリカ人の行動の底には、主要なものであれ付随的なものであれ、富への愛着が必ず見出される。このことが彼らのあらゆる情熱を同類のもののように見せ、見るもののあくびを誘う。
 p122
 有色人種の娘を「誘惑」することはアメリカ人の名声を少しも傷つけないが、「結婚」すれば名誉を失う。
 p125
 中世の市民の目に国家権力は存在しなかった。各人は自分の従うべき特定の人間しか認識せず、その人間を通じて、それと知らずに他のすべての人とつながっていた。
 p130
 アメリカでは致富心が賞賛される。広大で無尽蔵の領土を開発し肥沃にするためには、中世のヨーロッパの父祖たちが卑しい貪欲と名づけたものを、気高く尊敬すべき野心と呼ぶ必要が生まれる。
 商業における大胆を一種の徳と考えるアメリカ人は、風紀の紊乱だけは特別に非難する。それは人間精神を幸福追求からそらせ、成功に不可欠な家庭の平和を乱すからである。彼らが貞節を名誉と考え、必ず妻とともに教会に通うのも仲間の尊敬をかち得、その数を増やして幸福追求に役立てるためである。アメリカには彼らの仲間の数だけ宗派の数がある。
 p170
 民主的国民はみんなが仕事に熱中して、事業に魂を奪われている。どんな内容であれ、日々の実生活に直接関係ない理論に国民を熱狂させることは非常に難しい。このような人民はだから旧い信仰を簡単には捨てない。アメリカ人は、十分に時間をかけて基本的思想を考え直すことには耐えられない。
 p171
 同胞の大多数と対立しても、自分の中に引きこもり、自分の考えを守って自らを慰める貴族と違い、大衆にあっては世間の評判は空気と同じように不可欠にである。多数と意見を異にすれば彼らはほとんど生きていないようなものである。この状態は信仰の安定に驚くほど寄与する。
 p178
 貴族制にあっては士官は軍隊における地位と無関係に、社会の中で高い地位を占めている。しかし民主国家の軍隊では、士官は給与のほかに財産を持たず、軍事的名誉によってしか人の尊敬を勝ち得ることはできない。
 軍隊での出世欲は一般社会での野心と同じだから、それは普遍的である。ところが民主国の平時の軍隊内では階級の数に限度があり、不足は戦時にのみ生ずる。だから民主国の軍隊の中にいる野心家は切実に戦争を欲する。
 p180
 商工業の繁栄を愛し尚武の精神を失った平和な民主国家では、軍人は名誉ある職ではなくなり、公務員の最下級の地位に落ちる。軍人は理解されず、富裕な市民、教養と能力のある市民は職業軍人に決してならない。ところが、この粗暴な“部分国民”だけが武器を持ち、その使い方を知っている。
 p200
 貴族制の軍隊では、兵士はいわば入営する前から軍紀に従っている。というかむしろ、軍紀は社会的隷属の一つの完成にすぎない。
 貴族制の軍隊の規律はともすれば戦争の中で弛みがちである。この規律は習慣の上に築かれているが、戦争は習慣を乱すからである。民主的軍隊の規律は、敵前でさらに強くなる。勝つためには黙って従わねばならぬことを、事業で成功しようとする平時の市民の理性が教えるからである。
 p209
 「民主国において多数者の精神的な力はとても大きく、多数者の手にある物理的実力はこれに対立する側が集めることのできる武力とは桁違いである。」三島由紀夫トクヴィルを読んでいなかった。また「多数者の手にある物理的実力」をヒトラースターリンの軍事力と読めば、トクヴィルはドイツ・ロシアにおける二十世紀全体主義の覇権の確立を見通していたことになる。
 p215
 「一国の人民において境遇が平等になるにつれて個人は群集の中に姿を没し、人民全体の壮大な像のほか、何も見えなくなる。」これはヒトラースターリン金正日の目の映る人民そのものだろう。社会の権力は単一、遍在、全能であり、その規則は画一的であるということは、全体主義政治理論を特徴づける際立った特色である。
 訳文も非常によく、知性豊かな貴族の書いたフランス語独特の明晰で静謐な短文の連続を、落ち着いた日本語の中に移している。
 アーレントが欧州の個別事例に即して詳説した全体主義の起源を、トクヴィル長子相続制の弛緩に発する境遇の平等という、社会支点の変化から分析する。個人の平等化が、「同質多数」の誕生→「多数ということ」の圧政→多数が推す者の絶対化→個人の無力化という経過をたどって、いまの社会構造変化を生んだというわけである。
 そして、境遇の平等は全ヨーロッパでほぼ同時進行したから、全体主義も一国だけのものではありえなくなる。その結果国民全体の利害が多国間で複雑にもつれ合い、互いに害を与え合うとして、百年後の二度の世界大戦を正確に予言する。
 この本をアメリカ礼賛と読む人がいるが、なぜそんな読み方になるのか。被支配者の歴史状況の変化はヨーロッパもアメリカも同じだったのであり、ただ外国と陸続きでない地政学的偶然がアメリカに対して圧倒的優位に働いたにすぎないことは再三言及されている。「悪の枢軸」に対するブッシュ時代のアメリカ国内の世論も、ヒトラーに対する「世間の評判は空気と同じように不可欠に思われ、多数と意見を異にすればほとんど生きていないようなものだった」ドイツ人と、八十年を経過してもなんら変わるところがなかった。
 もし、一九七〇年に多くの学生が「アメリカの民主主義」を読んでいたら。朝日ジャーナルの記者が「民主国において多数者の精神的な力はとても大きく、多数者の手にある物理的実力は、これに対立する側が集めることのできる武力とは桁違いである」ことを覚めた頭で理解し、学生に冷水を浴びせる論文を隔週一本でも書いていたら。しかし、当時出ていた「アメリカの民主主義」は読むに堪えない翻訳だったらしいし、「全体主義の起源」の邦訳が出たのは一九七四年だった。