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ジョージ・オーウェル 『1984年』

 『カタロニア賛歌』などで “まともな人間社会”への思いを愚直にぶつけ続けたオーウェルの傑作。戦後すぐの時期、ロシア秘密警察の暴力がむき出しの形で出てきて、圧倒的に残酷である。村上春樹が『1Q84』の下敷きにしたらしいが、安全・安心な脱イデオロギーの与件下で「世界の壊れ」を書く村上春樹と、スペイン戦争に従軍してフランコの機関銃と爆弾をくぐったオーウェルでは、描かれる悪のリアリティがちがう。
 隣人を誰も信用できない全体主義社会の相互監視。「卑しい平等への熱望」が中・下層社会を支配し、抜け出ようとする人は必ず密告される。中流以上のアパートには一台ずつモニター兼監視カメラが設置され、「ビッグブラザースターリン)」の国営放送が、現在の北朝鮮TVの調子で、面白いほどデタラメの経済五ヵ年計画の方針をしゃべりまくる。監視カメラは24時間稼動していて、アパートの四角い部屋にはほとんど死角がない。妻との行為も、寝言さえも記録される。
 日本の中・下層社会を支配しているのが、鼻糞が目糞を嫉妬する卑しい平等への熱望でないと誰が言えよう。TVニュースで事あるごとに「専門家」を登場させ、「JR福知山線事故については国民全体がよく考える必要があります」と戯れ言を言わせるメディア。中・下層社会で人気の「平等なみんなの命」というパブロフの条件付け。・・・条件付けを意識しない中・下層はもちろんメディアになびき、行われる悪は「社会全体=自分だけは属していない不思議な大気圏」の悪となって、結果的に誰も責任を取らなくなる・・・オーウェルは独裁者による近未来の全体主義を書いたのだが、資本主義の高度化はオーウェルの予測とはまったく別の道を通りながら、動物のような人民を全体民主主義の同じ所に運び込んだ。

 p294-306
 下層社会に生きる人の目的は、もし彼らが目的を持っていればの話だが―――というのは、彼らは単調な労働によって過度なまでに虐げられているので、日常生活以外の事柄はごくまれにしか意識しないというのが昔から変わらぬ特性であるからだが―――あらゆる差別を撤廃し、万人が平等である社会を創り出すことである。
 富の全面的な増加は階級社会を破壊する恐れがある。万人が等しく余暇と安定を享受できるなら、人口の大多数を占める大衆が読み書きを習得し自分で考えることを学ぶようになるだろう。その結果大衆は少数の特権階級が何の機能も果たしていないことを知り、そうした階級を速やかに廃止してしまうだろう。
 問題は、世界の実質的な富を増やさずにいかにして産業の車輪を回し続けるかである。これを最終的に実現するには絶え間なく戦争を続けることしかない。戦争とは、大衆に過度な知性を与えてしまいかねない快適な物質を粉々に破壊する。戦争の実行は、大衆の必要をかろうじて満たした後で余剰があった場合、その余剰をすべて破壊しつくすように必ず(五ヵ年)計画される。
 現在の戦争は、相手を傷つけない程度に角をはやした反芻動物同士が戦っているようなものである。相手国を地上から抹殺するための戦いではない。戦争の目的は領土の征服にあるのではないから、兵器は第二次大戦時とくらべてほとんど進歩していない。消費物質の余剰を使い果たし、今の社会構造と心理環境をそっくりそのまま保つ最良の手段が継続される戦争なのである。北朝鮮の社会心理がそっくり保存されれば、たとえ金体制が破壊されても国民統合は容易ではない。
 p329
 体制内で生きるには、「二重思考」が不可欠である。敵に対しては黒を白だと心から言い切らねばならない。記録文書を改竄したときはそれを忘れねばならない。要するに「現実」は一重であってはならない。「二重思考」という言葉を使っているときですら、「二重思考」を行使しなければならない。そうしなければ、その「二重」思考という言葉を用いることによって、現実の改竄を認めることになるからだ。二重思考を新たに行使することで、意識的な欺瞞をはたらきながらそれを意識的に忘れ、改竄という罪の意識を消してしまう。この過程が無限に続いてゆくことで、客観的現実の存在は簡単に否定されるようになるのだ。
 当時の共産党(=スターリン)の敵である(トロツキーに似た)ゴールドスタイン著作とされる「寡頭制集産主義の理論と実践」には、そこに「反スターリン」地下同盟をおびき寄せる陥穽として「啓蒙の漸進的普及――大衆の反乱――党の打倒」が宣伝されている。しかし、最終的には人民の「人間性」を信頼し、寄り添おうとしたトロツキー(ゴールドスタイン)が、下層社会の家畜性を知悉したスターリンに勝てるはずはなかった。
 p408で、忠実な党幹部オブライエンは捉えられた主人公に情け容赦ない調子で答える。「ナチスロシア共産党も自分たちの動機を認める勇気をついに持てなかった。行く先には人間が自由で平等に暮らせる楽園が待っていると甘言を使った。我々はそんな真似はしない。迫害の目的は迫害、権力の目的は権力なのだ。」「権力は集団を前提とする。権力はなによりも精神を支配する力だ。我々が創る世界は、残酷が減るのではなく、増えていく世界なのだ」と。
 党中枢と党外郭だけを相手に論理を一方向に進めればオブライエンは間違っていないのだが、しかしその顔は疲れきっており、党が最も憎む「人間感情」が表れている。
 オブライエンは、ネズミのように湧いてくる大衆への憎悪だけでは、答えとして十分ではないことをよく分かっている。少し教育を受けた大衆側が「平等であってなぜいけない、ヒエラルヒーが崩れて総倒れになっても、もともとオレたちは倒れているのだからいいじゃないか」と反逆すれば大衆全員を射殺し、党中枢だけで生きていくしかない。
 だが、党中枢は農地を耕せず、工場の機械を動かせず、同志と世間話もできないからすぐに滅んで行くしかない。党の永遠は少しも保証されていない。同志オブライエンの神経負担は軽くなることがなく、その少しずつ濃くなってゆく「人間感情」を党は察知する。きのうまでのエリート幹部が明日にはあっさりと逮捕されてしまう。
 巻末、トマス・ピンチョンの解説に 「『すべての単語、構文に二重の意味を持たせて親世代を教育することで、その子供の世代には党賞賛の思考様式以外は不可能になる』という“ニュースピーク”(新言語)の諸原理は一貫して過去形で書かれている。ニュースピークの思考様式はまったく成功しなかったように暗示されている」 とあった。言語の構造とは思考の構造そのものであることを鮮やかに教えてくれるみごとな指摘だった。