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養老孟司 「唯脳論」 1

 ペーパーバックを書きすぎとも言われる養老孟司氏の主著。脳の『機能』が、神経系構成物質の三次元の『構造』そのものであり、それ以上でも以下でもないことを明快に説く。
 ある物質がある構造をとれば、その物質はその構造に見合った機能を 「持たざるを得ない」 。人間の神経系構成物質の構造が今のようであるからこそ、構造に見合ったパルスが自動的に神経間を走り、構造に見合った意欲や思考が自動的に生まれる。この 「構造に見合った脳機能」 の自覚こそ 「身体としての意識」 の見据え方である。敷島の大和心を叫び説いた三島由紀夫は四十年前、「敷島の大和心」が脳の『機能』に過ぎず、それを必然的に生み出す脳の『構造』に思いをいたさなかった。この不勉強ゆえに哀れだったと、著者は冷ややかに三島を切り捨てる。

 p46
 プログラムされた細胞死が、胎児の中枢神経系の中においても存在している。われわれの脳は、プログラムされた細胞死によって機能を確保している可能性さえ、今では議論されている。「我いまだ生を知らず、いわんや死をや」と言った孔子は、よくものを考えていたのである。
 p49
 心は、あくまでも神経系の「機能」であり、脳は神経系の一部をなす「構造」である。心というときは、脳はより (時間の中で順々に論理を説く) 聴覚運動系寄りに捉えられており、脳というときは、より (空間の中でパッと物を見る) 視覚系寄りに捉えられている。
 p76
 構造主義における構造とは、しばしば、その中に言葉や数を「教え込む」ことのできる脳の基礎構造のことに他ならない。教え込まれることと基礎構造の成立とは、同時に起こる過程、つまり同じこととも言える。そういう構造化を受け入れる素地が、人間の脳にはある。 
 「学習」にも、初期操作が将来の結果に対して決定的な影響を及ぼす、マルコフ連鎖の冷徹な自己生成原理がはたらく。むしろ、マルコフ連鎖の自己生成原理こそ「構造化」の別の言い方である。生成の展開図と折り畳み図を決めるのは、たまたまそこにある分子の濃淡勾配と一次元に過ぎ去る時間だけである。

 p124
 睡眠時にも脳のエネルギー消費、したがって酸素の消費は減らない。レム睡眠時には覚醒時よりも酸素消費が多いかもしれないという。
 p136−140
 人間は大きな体を精密に動かすために、神経細胞が脳の中でできるだけお互い同士つながりあうことによって、お互いに末梢組織あるいは支配域を増やす。それによって神経細胞がお互いを維持する。機能的にいうなら、たがいに入力を与え合い、たがいの入力を増やす。末梢を十分支配しない神経細胞は、充分な入力がないため衰え、やがて死ぬ。意識とは多分このようなものである。
 脳内の神経細胞は外部からの入力だけに依存するのではなく、脳の自前の活動によって神経細胞が維持されるようになる。意識がこのようなものだとしたら、その生物学的意義とは、たえずたがいに入力を与え合う神経細胞の自己保存あるいは自慰行為である。単純である。意識は自分に必要なことをしたいようにやっているのであって、きわめて動物的な必然以上のものではない。
 この生物学的必然は、ネオダーウィニズムのいう外界への適応という外的必然性だけではない。なぜなら、意識は脳の構造が必然的に(自動的に)生んだ機能なのであって、生体内では構造と機能は同じものの異なる「見方」であるに過ぎないからある。
 自然選択説は、ダーウィンすらすでに気づいていたように、脳と意識に対する外界からの淘汰圧についてはいくらかの説明ができるが、その起源に関する説明においてはきわめて無力である。自然選択説は「ある構造をとればある機能が必然的に生まれ、それぞれが互いを強化しあう」という、解剖学者には自明である内的必然性に言及できていない。