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養老孟司 「唯脳論」 2

 p168
 日本人にとって漢字は視覚にパッと訴えて理解させる言葉であり、カナは音声で以て順々に聴覚に訴えて理解させる言葉である。すなわち日本人は、漢字と仮名の皮質での処理部位が異なっているのだろう。たとえば、「角回」すなわち視覚言語に関わる中枢に障害があると、日本人は音声的なカナだけが読めなくなるが、西洋人ではアルファベット全体の障害が生じる。
 中国人の場合も西洋人と同じ障害が出る可能性が大きい。中国人は(訓読もする日本人と違って)漢字を音と一対一対応で読んでおり、その意味では漢字はアルファベットであり、その読み方は、日本人が「角回」を使ってカナを読むときの読み方であるからだ。
 日本人の外国語下手は定評があるが、下手な部分が会話、すなわち主として音声的部分であることは注目に値する。言語理解を担う脳の部位、つまり構造が西洋人や中国人と日本人では異なっているのだから、ただ英会話時間を増やしてどうなるという問題でもない。
 p193-4
 シャチの視覚は発達していない。巨体が狭いプールで跳ねてもぶつからないあの驚くべき運動能力は、「時間」を介在させた聴覚−運動系領野の計算能力(論理能力)の賜物である。
 霊長類は、もともと薄暮に住んだ哺乳類としては例外的に視覚系を重視した。ところが、形に理屈はない。自明があるだけである。目の前の壁は高いと視覚は直感的に教えてくれても、それにぶつからないための理屈は教えてくれない。
 ぶつからないための理屈は、聴覚系領野が「時間」をかけて計算しているものである。シャチやコウモリはこの計算能力(論理能力)がすばらしく発達している動物なのである。視覚系を重視してきたヒトの論理的な苦労のかなりの部分がここに由来する。(コウモリのような危険回避行動のできる小型飛行機は全く発明されていない。われわれの知性などはその程度である。)
 p212−8
 歴史意識とは、ある文化におかれた脳の典型的な時間意識である。「新しい種は、<なる>べくして<なる>」という今西進化論が、「植物のおのずからなる発芽・成長・増殖のイメージが同時に歴史意識をも規定している」という、丸山真男が示した「歴史意識の古層の基底範疇A−なる・なりゆく」にすっぽり収まってしまうのも、今西氏が戦後の「日本復権」時代に人となったからである。(一般国民は戦争の反省などはとうに忘れて、父祖伝来の歴史意識の古層に再び覆われていたから、彼の説は学生にもメディアにもよく受容された。)
 自然科学と根を共有する西洋の思想は、ほとんどダーウィニズムに統一されたかに見える。しかしダーウィニズムが(過去のキリスト教のように)いかに等身大「以上」のものに見えようとも、それが一つの文化におかれた脳の典型的な時間意識であることを忘れてはならない。時間意識について正誤というものはない。夢中になっている時間が短く感じられるからといって、それは誤りでも正しいことでもない。
 p226
 われわれはなにかを「しようと思い(意図)」それに「適した行動をとる(運動)」。それだけ知っていれば行動は十分らしい。それ以上の細部が必要なのは、ほとんど意識がなく、練習したこと自体忘れてしまっても進歩するたぐいの、記憶で言えば「手続き的記憶」に似た新しい随意運動を練習するときだけである。
 p228
 目的論は科学的ではないとするのは誤りである。神経細胞が脳の中でできりだけお互い同士つながりあうことによって、お互いに末梢組織あるいは支配域を増やし、脳内に必然的に発生してきた「意識」は、運動にもある「解釈」を与えずにはいない。その解釈が目的論である。この思考を行動に当てはめることに異を唱えるのはバカな話である。
 p229
 人間の世界認識は、動物が外界を認識し、脳の中に自分の巣の地図を作るのと似たようなものである。
 p232
 あの鳥類の視覚でも昆虫の擬態は見破れない。感覚系の末端は「間違うことができない」のである。感覚系は、自身の判断を訂正するためには異質の感覚に頼らざるを得ない。見える以上は「見えている」し、聞こえる以上は「音がする」のだ。感覚系には試行錯誤はないのである。人間に擬態が見破れるのは視聴覚が連合し「擬態という『概念』」を作れるからである。
 一方、試行錯誤を得意とするのは運動系である。自然選択は自然の試行錯誤とも言ってもいいが、それゆえに、ダーウィンも目の変化が自身理論のの弱点であることを気にしていた。三葉虫には収差抜きレンズの目があるが、なぜ収差を「除きかけ」の中途半端なレンズを持った段階の三葉虫がいないのか、ダーウィンは説明できない。
 p242
 量子力学ではものごとは量子的、つまり微分不能になる。複雑な脳にとっては、古典力学は話が単純すぎる。不確定性原理として、宇宙論に脳つまり観測者が顔を出すのは、物理学が健全になった証拠である。われわれは、モンテーニュの言うように「どんなに高い玉座に昇るにしても、座っているのは自分の尻の上」なのだ。
 p252
 三島由紀夫には「身体」の対応概念としての「脳」が欠けていた。彼は身体性の欠如を強く意識したが、彼が嘆くべきは「思想としての身体」が存在しないわれわれの社会ではなかったか。三島は「敷島の大和心」や「和魂」を誇りとしただろうが、これこそすなわち「機能としての脳」のみであり、思想としての身体が存在しないことの証明である。