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高野陽太郎 「集団主義という錯覚」

 新聞などに見られる安易で自虐的な「日本人=集団主義」論を排する全体論調は、やや冗漫にせよ説得性があるのだが、一箇所「日本語には私的自己が確立されていることを表わす『自分』なる語がある」という、関西人にとっては馬鹿な!と直感する事実誤認があり、白々しい気分にさせてしまう。具体的にいえば、関西の会話では「自分=あなた(You)」でもあることを、東京弁話者の著者はまったく知らない。にもかかわらず、「日本語を正確に理解できる人なら誰にとっても、『自分』とは私的自己である」と言い切る呑気さである。
 p105「・・・は、自分は泳げないと信じている」の三つの例文に即して説明すると、
第1例文「私は、自分は泳げないと信じている」は、関西弁では
   「私は、あなたは泳げないと信じている」の意になり得る。
第2例文「君は、自分は泳げないと信じている」は、関西弁でも
   「君は、自分自身、泳げないと信じている」の意だが、
第3例文「彼は、自分は泳げないと信じている」は、関西弁では
   「彼は、あなたは泳げないと信じている」の意になり得る。 
ネットにはこうした関西弁の「自分=相手のこともいうフシギ」というサイトがあふれているから、ピンと来ない東京弁話者でもすぐに確認できる。関西弁が日本語の重要方言であり、歴史経緯や使用人口の数を考えると、「『自分』は私的自己のみをあらわす」という命題は、日本語一般を論じた場合は限定的にしか成立しない。(「てまえ」が、特に「テメエ」に訛れば、「わたくし」にも「おまえ」にもなるのと一般だろう。)
 著者のこの命題は筑波大の廣瀬幸生氏に拠っているのだが、廣瀬氏はなんと京都出身であるにもかかわらず「彼は、自分は泳げないと信じている」の「自分」を、関西弁でも「あなた」にはなりえないとしている。関西出身の「学者」が故郷の友人・知人の私的会話を「知らない」と言い切れるのは、あっぱれである。
 著者が、自身のオリジナルではないにせよ、廣瀬氏を無批判に引き写し、今の時代WEB閲覧さえせずに本論で主張するのでは、東大の先生としてあまりにお粗末である。新曜社なる版元にも誤りを指摘したところ「本書の記述に削除訂正するまでの問題はないと思います」との返事がすぐ返ってきたことにも、今世紀の出版業界を知らない私は驚いた。
 その気になれば疑わしさはほかにもある。ミルグラムの有名な「アイヒマン服従実験」引用がその一つ。権威者に囲まれた状況下では人間は国民・階層・人格・イデオロギーと無関係に同じような無責任行動をとるというものだが、この実験結果を「日本人集団主義論」の反証に使うのはあまりの我田引水である。「個人責任を最小化したときの人間行動」の文脈で論じるべき実験結果であって、集団主義個人主義の比較論に援用してはあさはかのそしりを免れない。ゼミの学生はどんな気持でこの本を読んだのだろう。大塚久雄大河内一男渡辺一夫丸山真男のような人だけが東大教授ではないのだし、理想社、未来社みすず書房のような所だけが出版社ではないのだ。