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平野啓一郎 「葬送」 2

 『葬送』はショパンの葬式から始まっている。ということは、スリリングなプロット展開や登場人物の「生活者としての生き死に」などは初めから問題とはされていないということだ。
 生死は時計で測られる時間の中の現象でしかなく、時間が短くも長くもなるところに成り立つ芸術家達の内奥をどこまで日常の言葉に移しうるか、そのことを平野は、プロローグで自分の天才を信じて宣言している。
 ショパンドラクロアの天才とはいかなる現象であるかを、言葉に残った想像力と構成力の核心部分だけを使って、煮た繭の中から絹糸だけを取り出すように、純粋に掬い上げようとすることの表明である。このような、驕りともとられかねない大胆・直截な自負と、作中に披瀝されているその才能の証明は、過去の小説家に例があったのだろうか。
 ショパン最期の描写には、論理を否定することなく、しかもそれを超える感情を丹念に拾う作家としての力量を感じる。「葬送」と「決壊」の間には非線形の飛躍はない。

 四巻p172頁
 死を直前にしたショパンに、今日と明日の間に渡るべき橋が架かった。対岸には、家族が両手を広げて待っている。それを目前にして力尽きるわけにはいかなかった。
 p265 
 朦朧とした意識の中で思い出した、ポーランドを去る若いショパンのために友人たちが歌ってくれた送別のカンタータは平野の創作か。
「国離るれど 汝が心は我らとともにあり 汝が天分の思い出 この地にとこしえならむ」
 p355−366
 臨終の場面は、濃密なシーンを得意とする平野の筆力が冴える。情を深く律し、理を静かに戒めた荘厳な短調の文章は、十九世紀小説の美しさを再現する。ことに、ヘンデル「デッティンゲン・テ・デウム」を彼の願いによってポトツカ伯爵夫人が歌う場面。
 ポトツカ伯爵夫人の、ベルカント唱法の最良の洗練ともいうべき光輝を湛えたソプラノの響きは、今彼の全身に染み渡り、彼の一生を彼の最後の音楽として祝福した。ポトツカ伯爵夫人は、涙に打ち震えながらも、悲しみの大きさに負けて音楽が卑俗に堕することがないように自らを高め、女性の奥底に芯のように通る、あの比類ない強さを持って歌い続けた。それに打たれるショパンの姿は、天才を授けられ、人の世界にまったく新しい音楽を齎したひとりの音楽家の、まさしく音楽そのものとの別離の光景として、居合わせたものたちを激しく揺さぶった。
 見守る親しい人々の祈りの声は、薄れつつある意識のなかで彼をいよいよ深みに連れ去り、終えてみると『あちら』と『こちら』とは既に地続きでないことがはっきりと感じられた。近づき過ぎた巨大な壁が、遠目からは見えていた筈のその全体を隠し、ただ目の前の一画しか明らかにせぬように、死はいかにも確実に見据えられ、しかもその正体は一層不確かであった。