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平野啓一郎 「ドーン」

 p60
 正しいことを誰かが語っていると感じたときには、決して言葉だけを記憶してはならない。その人間の顔を声とを必ず一緒に記憶するのだ。その言葉がどんな顔とどんな声とで語られたのかを。
 p171
 俺は、自分はもっと複雑な人間のはずだと、おめでたくも思い込んでいるのだろうか。自分のさもしい心と戦いながら、どうにかまっとうに生きている人間の方が、清清しく健康な魂を生まれ持った人間よりも、精神的には深みがあるはずだ、と。いい年をして。戯言ではないか。
 p364
 大衆が、政治家のあなたに対して抱く好感の立ち上がりは遅い。あなたは政治家なのに、ポピュリズムという大衆迎合の才能に恵まれていないからだ。そういう人間が大統領候補になったのはラッキーだったからでは決してない。あなたが「普通の感覚」を持っていることをみんなが尊敬しているからだ。
 平野啓一郎としては軽く書いた、あるいは「決壊」後あまり空けるのは・・と出版社にせっつかれて急いで書いたものだろう、か。タイトルに少し驚き、明るみ始めた東の空を思わせるエンディングも作者らしくなかった。ヘッドヘビーな形容詞句の連鎖が気になり、日本語のシンタックスとしては誤りに近い表現もあった。
 この小説のテーマの一つ、『Dividual(分人)』には少しだけ考えさせられた。
 Individual(個性)というものは実際はなくて、相手ごと、場面ごとに最適な分人Dividualが年齢と環境と学習に応じて作られてゆき、それを統合しているだけなのが個性Individualではないのか、統合失調はある分人=Dividualが不適切な相手や場面に発現することと考えたほうが説明しやすいのではないか、という説は興味深い。
 ただし、この分人=Dividualの考え方をあまり進めると、いわゆる“性格”と Dividual はどう違うのかという問題が出てくる。
 この作品に即して言えば、リリアン=レインの性格描写が甘くないか、ということにもなる。雑誌のカバーモデルになるほどの美人であり、「同性には好かれない」、何においても「過剰な」彼女がなぜ共和党大統領候補の父親の選挙妨害をし、東アフリカでの米軍軍事行動の暗部を暴露する決心をするのか。いまひとつ説得性がなかった。「『正しい人間』のDividualを世界に差し出したい」と平野は言うが、それまでの彼女は好ましくないDividualがあまりに多い人間として示されていなかったか。一言で言えばただの嫌な女ではなかったか。
 通常、嫌な女が社会的には立派に見える行いをする場合は、解決不能な問題を声高に言っているだけのことが多い。(マザー・テレサはとてもやかましい聖女だった。自衛隊暴力装置と知らない丸川珠代は議場で「愚か者めが!」と叫び続けている。)
 火星で堕胎した明日人 (この主人公の名前に平野の路線変更が表明されているだろう) との子の遺伝子検査がなぜされなかったのかも、理由は書かれていない。遺伝子検査の結果は物語全体のその後を大きく変えるだけに、作品の構造にかかわる規模の欠陥だろう。