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井筒俊彦 「意味の深みへ」

 p77−8
 人間の経験は、いかなるものであれ、言語的行為であろうと、非言語的行為であろうと、すなわち、自分が発した言葉、耳で聞いた他人の言葉、身体的動作、心の動き、などの別なく、必ず意識の深みに影を落として消えていく。たとえ、それ自体としては、どんなに些細で、取るに足りないようなものであっても、痕跡だけは必ず残す。
 内的、外的に人が経験したことのすべての痕跡が、アラヤ識を、いわゆるカルマ(業)の集積の場所となす。そしてカルマの痕跡は、その場で直ちに、あるいは時をかけて次第に、意味の「種子」に変わって行く。
 意味の「種子」が具体的に実現されるのは個人個人の意識内であるが、言語アラヤ識そのものは個人の限界を超出する。それは、水平的には個人の体験の範囲を超えて拡がり、垂直的には、これまですべての人が経験してきた生体験の総体の、集合的共同下意識領域とも言うべきところに貯蔵されてゆく。
 そこには、すべての人のすべてのカルマの痕跡が「種子」に変成して内蔵されている、と言っていい。コトバによって生み出される文化の下には、このような集合的共同意味「種子」の基底が伏在している。
 「意味の種子」が、個人の限界を超出するのでなければ、生物の進化は考えることが難しい。「意識の深みに影を落とした言語的行為あるいは非言語的行為」が個体の範囲を超えて「集合的共同下意識領域として」積み重ねられ、ある閾値を超えたときに集団的突然変異とでもいうべきものが発生する。ベルグソンの「エラン・ヴィタール」はこのことを言っている。
 「集合的共同下意識領域」は人間だけの占有物でもない。イソギンチャクやサルが内的、外的に経験したことのすべての痕跡はイソギンチャクやサルの「業」として彼らの深いところに貯蔵されていく。そしてその「業」は、ときどきある閾値に近づくことがある。閾値を超えたとき、その生物にはEvolution=「展開」が訪れる。
 「進化」を「展開」と書いたときに開ける、人類だけの不遜な「価値」をともなわない新しい地平がある。進化・Evolutionは数学用語では「開平」であり、数や数式の平方根を求めることである。平方根を求めることと生物の「展開」は、一見無関係にも見えるが、ある生物の現在の段階を<ごく小さく折りたたんで作られた紙の箱>であるとイメージすれば、十万年後<その紙の箱の折りたたみが一回だけ展開されたもの>がその生物の次の段階であるとぼんやりイメージすることも、まったく不可能なわけではない。
 人が多文節の言葉を理解するのに欠かせない遺伝子FOXP2を獲得したとき、それは人類の「展開」の大きな節目だった。その遺伝子の塩基配列がどのように組み込まれたかはただ「偶然」とだけいわれているが、FOXP2に近似の高分子はそれまでにすでに存在していたことが知られている。そしてヒトの喉の構造がその時代に発話を受け入れるように変化していたことも知られている。
 これらのことはとても重要である。ある機能の獲得とそれに見合う構造の獲得が同時に起きていたのだ。そこには、注意して使わなければならない言葉だが、なんらかのベクトル圧がかかっている。すくなくとも「偶然」で片付けるのは、判断放棄に近い言い方である。