アクセス数:アクセスカウンター

ジョン・ダワー 「敗北を抱きしめて」

 上巻p230
 第二次大戦中、戦時動員の労働者を国策に協力させるために全力を挙げていた『協力新聞』は、戦後になると「どんな経験でもこの世に無意味なことなどありえない」として、敗戦に対する保守派の反応を典型的に告げていた。 「日本、アメリカ、世界人類社会も大東亜戦争から学ぶべきものがある。将来の平和と繁栄のために全世界は反省と懺悔をしなければならない。日本人は戦争を終結に導かれた天皇の大御心に打ち震えるのみであり、軍国主義者だけでなく一億国民全体が敗戦責任者であることを認識すべきである。」
 p287
 アメリカ戦時情報局の分析家たちは日本の至高の権威である天皇は、基本的には『人格』ではなく空っぽの『容器』であると主張した。空っぽということは何でも入るということだ。黄金も入るし鉛も入る。蒸留水も泥水も入れられるだろう。そういえばルイ十四世やヘンリー八世、カエサルやナポレオンのような 、わがままとか、臆病とか、負けず嫌いとか、女好きとか、人間嫌いとか、おしゃべりとか、快活とか、陰気とか、そういった個人的性格を、天皇については聞いたことがない。
 下巻p79
 一九四六年三月十八日から四月八日まで、天皇は自らの統治下における主要な政策決定において、側近たちに合計八時間もの「独白」を行った。この回想は天皇個人の戦争責任を決して認めているものではなかった。それどころかこの機会を利用して天皇は大災厄をもたらした政策の責任を臣下に押し付けた。しかし同時に、この前例のない独白によって、天皇が最高レベルの人事や手続き、具体的な政策決定についてじつに詳しく知っていることが明らかになってしまった。
 P84
 天皇は敗戦の責任を負うべきであった。その名において戦われた戦争でひどい目にあったり、死んだり、あとに残されたりした臣民に対して謝罪することで、歴史を清算すべきであった。そうすれば天皇は、日本の歴史上でもっとも恐ろしい時期に血にまみれた玉座を清めることができただろう。
 p105
 一九四六年二月二十二日、戦艦武蔵に乗り込みマリアナ海戦で大敗北を経験し奇跡的に生還できた渡辺復員兵は、サイパンから復員してきた兵隊と天皇が以下のような会話を交わしたのを耳にした。 「戦争は激しかったかね?」 「ハイ、激しくありました」 「ほんとうにしっかりやってくれてご苦労だったね。今後もしっかりやってくれよ。人間として立派な道に進むのだね。」 渡辺復員兵は絶望感に苛まれた。おそらく天皇は、まともな人間なら誰でも持っている責任感を持ち合わせていないだけなのだ、と彼は考えた。天皇は少なくとも次のように言うことはできなかったのだろうか。 「 私のためにご苦労をかけてすまなかった 」 と。
 五年前に読んだこの数行が私のヒロヒト個人への侮蔑感を確定した。いわゆる「日本的」なもののほとんどは、時制にかかわる接続語をいくつか重ねるだけでその起源を天皇周辺にさかのぼることができるから、建築も芸能も文学も、多くの「日本的」なものが私にとっては嫌悪の対象になってしまった。六百万の人間を死に追いやりながら、戦争は時の勢いの赴くところであったとし、退位はおろか謝罪さえしなかった国王は世界史上に彼一人である。
 彼の天性の保身の術と、業績の不振を下降段階的に部下の人間に押し付ける日本企業の幹部たちの行動パターンほど似ているものがあるだろうか。彼は日本的なる現世倫理の原点なのであるから、彼が自らを罰しない限り誰も彼を追及できない。拝殿の薄暗いところで奉ってきた鏡が、実は修復しようもなく錆びていたのである。もしくは鏡が入っているはずの箱は空虚だったのである
 
 p303
 敗戦当初数ヶ月のある時点でまとめられた緊急勅令草案は、日の目を見ることはなかった。しかし戦争責任の問題について吉田茂を初めとする支配者集団の好きに任せておけば、一体どこまでする気だったのか、これほど鮮明に示す例は他にないだろう。すなわちあの破滅的な戦争は天皇の信頼に対する裏切りであり、天皇の平和に対する不変の献身の悲劇的な悪用であった、とするのだ。(以下、支配者集団が野放図に書いた草案本文は省略。)