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井筒俊彦 「イスラーム生誕」

 p120付近
 「イスラーム」とはアラビアでは長い歴史を持つ言葉であって、ムハンマドが初めて使い出した言葉ではない。元来の意味は、人が自分の大切な所有物を他人に渡してその自由処理に任せるということだった。それをムハンマドが宗教的次元に移して使った。すなわち「人間が彼にとってかけがいのない大切なものである自分自身を、そっくり神に引き渡すこと」とした。
 つまり白紙委任。家畜と飼い主の関係。数千年にわたって牧畜を生活手段とし、一定期間食糧を与える代わりにミルクと突然の死を要求してきたセム人。人間と家畜の関係を身体の隅々にしみこませてきた彼らが人格一神教を生み出した理由の、少なくとも一端は、この家畜から人間への白紙委任とパラレルな関係にある。
 P141
 アッラーを見るとき、何よりも先ずわれわれの注意を惹くことは、イスラームの神の(現世)倫理的性格である。神が本質的に(現世)倫理的であるということは、当然、イスラームにおける信仰もまた本質的に(現世)倫理的であることを意味する。この点でイスラームは実に典型的にセム的な宗教である。アッラーユダヤ教キリスト教、特に旧約の神ヤーヴェと著しく類似している。
 P176
 イスラームは自分たちの祖先が深い影響をこうむった、仏教をはじめとするインド系宗教が現世否定を少なくともその出発点とするのとは、まったく違う。現世を夢幻のごとく儚いものと見る否定的態度はなく、むしろ逆に現世を神の倫理的経綸の唯一の場所と見て、そこに宗教的秩序を創り出していこうとする。
 p180−7
 ムハンマドイスラーム共同体が外部に向かって発展し始めたとき、彼らは自分達がユダヤ教徒キリスト教徒、サバ人、ゾロアスター教徒など、セムの「啓典の民」の資格を持った強力な「信仰ある人々」に取り巻かれているのを発見した。徳義上の優劣の差はまったくないかに見えるこれら信仰共同体の間で、いかに自分たちの特徴を位置づけるかというアイデンティティ確立の根本問題があらわれた。
 わけても当時アラビアとその周辺の地域に強大な勢力をふるいつつあったユダヤ教キリスト教に対しては、これは実に切実な問題であり、アイデンティティ確立に失敗すれば自分たちは以前の「無道の砂の民」時代(ジャーヒリーヤ)に戻ってしまいかねなかった。
 きわめて困難な問題を決定的に解決したのは「アブラハムの宗教」という理念である。ムハンマドは「イスラームの預言者」の自覚に立ち上り、宗教意識が確立されるにつれて、人類の父祖アダム以来連綿とつづく預言者の系列に支えられてきた「永遠の宗教」の伝統に敏感になっていた。この「アブラハムの宗教」という「永遠の宗教」がユダヤ教キリスト教の歴史によってひどく歪曲されてしまったというのが、これ以降、彼の固い信念となっていく。
 ムハンマドはこの「永遠の宗教」を史的現実において最も理想的な形で具現した人こそアブラハムであるとした。アブラハムこそ人類史上最初のムスリムなのだった。ムハンマドは自分が率いる宗教をアブラハム的原形に引き戻そうとしたのである。このことによって周囲を取り巻く「啓典の民」とイスラーム共同体の優劣は明確になると確信することができた。
 身も蓋もない言い方になるが地獄はイエスの時代もムハンマドの時代も、大地の下にあった。それが、マゼランが世界一周をして地球が丸いことが確かめられると、イギリス人にとっての地獄方向はオーストラリア人の天国にあたることになった。
 これに対して、(天国方向イコール地獄方向とならない長所もあって)神を「宇宙のありかた」とする見方がある。この考え方はほとんど倫理的性格を持たない。人のある行為を「宇宙のありかた」は怒りもしないし、歓びもしない。「宇宙のありかた」は、第一義的には、生物的イマージュを伴わないから、その周囲に(現世)倫理にかかわる意志とか感情にかかわるものがないのは当然である。
 神が「宇宙のありかた」であれば、人は他者や自然のふるまいについて、かくあれかしと「依頼」することはできない。依頼してもそれは「ほとんど偶然にしか」実現されない。人ができることはかくあれかしと「祈る」ことだけである。祈ってもその実現は保障されないが、「依頼」とちがってそれが実現されなくても失望感を伴わない。ましてや憎悪や恨みは生まれない。私たちの知性はただそのことを意識に乗せ、正確に記述することができるだけである。