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福岡伸一 「世界は分けてもわからない」 1

 p32
 (六等星以下の)かそけき星の光は、理論上は三十秒以上凝視してカメラのように露光しないと見えない。しかし目はほぼ瞬時に星が見える。
 光には波と粒子の二つの性質がある。波として考えればエネルギーを一定量受け取るのに三十秒以上かかるが、粒子として考えれば瞬間的である。計算上は目をヒットする光子はほんの数個から数十個である。私たちはそれが捉えられる。
 p95〜102
 がん細胞とES細胞は紙一重である。受精卵が数回分裂して百個程度になったクリティカルな時期、ある細胞Aの表面には、たまたま他の細胞に率先して特異な形の突起が現れる。すると隣接した細胞Bにはその突起の形に相補的な陥没が現われ、両者は相補的に結合する。両者は突起と陥没をとおして「交信」をはじめ、それぞれの細胞内に排他的な部品(a1,a2・・/b1,b2・・)を用意して分裂するようになり、A、Bはそれぞれ排他的な別々の器官・臓器に成長して行く。A、Bは(ポリアの壷にも似た)非常に単純な排他的行動ルールにしたがって隣接した細胞とだけ交信し、自らをますます排他的に変化させる。
 いったん皮膚系の部品を用意した細胞は毛髪・爪・汗腺などに分化していくが、内臓系に分化することはない。部品は隣接細胞との交信の結果で選び出され、互いに他を規制する形で差異化されていく。これは生命現象そのものであり、どこに指揮者がいるわけでもない。
 この時期の初期胚の細胞のうちごく一部には、別の初期胚に入れてやるとその中で周囲の細胞と交信できるものがある。これがES細胞である。ES細胞は新しい胚のなかで周囲に溶け込んで分裂を始め、同様にあらゆる器官・臓器に成長できる。
 しかしES細胞は分化の進んだ後期の胚や成体に入れると周囲の細胞と交信できず、ただ自身が増え続けることしかできない。これはがん細胞そのものである。事実成体内に実験的に移植したES細胞はしばしば腫瘍化することが分かっている。
 がん細胞は、最初一度は何ものかになりかけたことのある細胞である。それがあるとき周囲の細胞と交信できなくなり、ただ無個性なまま自身で増殖するだけになる。細胞は一般に分化を果たすと、内的ルールに従って分裂をやめるかその速度を落とすが、がん細胞は完成した臓器の上を乗り越えるようにして多層的に積み重なりながら分裂を続ける。
 がん細胞の研究者は何十年にもわたって、がん細胞が周囲と正常に交信できるようにする制御方法を探してきた。しかし今なお、(生命現象の内的ルールを記述する)その方法は見出されていない。
 p122
 移植された植物(移植された臓器と考えてもよい)は、最初は気候・害虫・雑草の攻撃にさらされ、幾度となく全滅を繰り返す。しかしあるときそこに奇妙な寛容と適応が生まれることがある。周囲の環境と折り合いをつけ、代謝上の連携を結び、動的平衡状態に入れたのである。そして外来種だったものはいつの日か在来種となり、しっかりと大地に根を張る。しかしそれは人間が何かを制御しえたこと、何かを制圧しえたことを示すものではまったくない。
 p136
 食事のあとなぜ消化が必要かといえば、食物タンパク質は、もともとは生物体の一部であったものである。そこには持ち主(もともとの食物)固有の情報がアミノ酸配列として書かれてある。これがいきなり別の生物体に入ればそこの固有の情報系との衝突が起こり、拒絶反応、食品アレルギーを引き起こす。これを避けるため消化酵素は、食物タンパク質を固有の情報を持たない個々のアミノ酸にまで分解する。
 p139
 膵臓に異常が起きるとおびただしいタンパク消化酵素が細胞から間違った方向に漏れ出す。消化酵素は相手が食物だろうと自分自身だろうと区別できないから、私の消化酵素は私自身を分解してしまう。膵臓にメスを入れることは膵臓細胞を破壊することだから、漏れ出たタンパク分解酵素が自己消化を引き起こす原因となる。膵臓がんは、宿主自身を分解してしまおうとするゆえに激しい痛みを引き起こし、最も治療の難しいがんのひとつである。