アクセス数:アクセスカウンター

福岡伸一 「世界は分けてもわからない」 2

p145
 脳死を人の死とするロジックから敷衍すれば、受精後25、6週の脳波が現れる時期を「脳始」とし、それ以前の胚はヒトではないとして、再生医療などの名目でいくらでも利用しようとする日が来るだろう。
 それは器官発生の高解像度画像を手にした私たちが何かを制御または制圧したことの証である。しかし私たちは、自分たちの高解像度画像だけを見て、日々が安楽になるものでもない。花を散らした春風の夢に胸騒ぐ男は、女がなぜ今日は機嫌がよいかを、つい捻じ曲げて考える。女の説明で解像度は上がるかも知れないが、全体を俯瞰できない男の不安の淵は深くなる。せっかく会えた今日の一日は曇りがちである。
 p163
 若い人になぜ勉強しなければならないのですかと聞かれたとき。
 色彩のなめらかなグラデーションを見ると、私たちはあるはずのない境界をその中に見つけてしまう。逆に、不連続な点と線があると私たちはそれをつないで連続した図形を作ってしまう。(宇宙のような)連続体を分節し境界を強調することが世界を理解することであり、生き残る上で有利と感じられたのがその理由である。
 このように、かつての私たちの認識の水路は今でもしっかりと私たちの内部に残っている。このような水路は本当に生存上有利で世界に対する本当の理解をもたらしたのだろうか。
 私たちは高解像度画像と全体俯瞰画像を同時に持つことはできない。つまり世界を一挙に見ることはできない。しかし要点は、そのことに自省的であるということである。滑らかに見えるものは実は毛羽立っているかもしれない。毛羽立って見えるものは実は限りなく滑らかかもしれない。そのリアルのありようを知るために、私たちは勉強しなければならない。
 p209
 ATP分解酵素ATPをADPに分解するときに生まれるエネルギーは、ナトリウムイオンを細胞の中から外へくみ出すのに使われる。この細胞膜内外のナトリウムイオンの不均衡、つまり濃度勾配こそ生命現象の源泉である。このことは 地球上の全生物に共通である。細胞の形態維持、神経インパルスの発生、筋肉の運動などさまざまな活動がナトリウムイオンの濃度勾配に依存している。
 p211・228
 がん細胞のATP分解酵素チロシンというアミノ酸がリン酸化されており、細胞膜の内外のナトリウムイオンの濃度勾配を作り出す効率が悪い。その結果細胞の形態維持ができず、ただ増殖を際限なく続けることしかできない。正常細胞はシャーレの淵に行き着くと分裂を止めるが、がん細胞は停止しない。
 p270
 がん細胞のATP分解酵素だけにリン酸化酵素のカスケードが存在する。しかしそのカスケードは単純な線形図式ではない。複数のカスケードが途中で交差し、相互に働きを促進したり抑制したりしている。リン酸化酵素の数だけで数百を超えている。

 分子生物学の新しい知見が書かれているのではなかった。生物学者にしてはとても上手な文章の中で(今回は『生物と無生物のあいだ』ほど「テクニック」にうんざりすることはなかった。)解像度をどれだけ上げても世界を把握できるわけではないことを、記憶に残る挿話をまじえて書いている。一箇所、がん細胞の中のリン酸化酵素カスケード発見の偽論文の話などは、下手な小説家よりはるかに上手なジョークに数十ページにわたって完全に翻弄された。
 著者の世間での評価は褒貶半ばしている。それにしても彼を嫌う人たちのネット中の雑言には驚く。「彼の文章は旧約聖書創造論者と大差ないレベルの、進化生物学に対する誤解、中傷に満ちている」らしい。そして、その悪口の根拠になっているのは大昔、中学・高校で習った古典的ダーウィン進化論である。彼らは例えば獲得形質の遺伝などは前世紀の遺物として大声でわめく。ある形質についてそれが適者生存の結果とは考えにくい事例がいくつもあること、たとえば稲を生育途中で脱メチル化すれば背丈は伸びず、その低い背丈は遺伝することなどは当然知りもしない。ネットはクズも平等に扱う。