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井筒俊彦 「イスラーム思想史」 2

p221−4
 九世紀から約二百年をかけてイスラーム思想に移されたアリストテレス哲学の体系には徹底した新プラトン的解釈がなされた。それは翻訳者の中心がネストリア派シリア人たちであるという、いわば地政学上の必然によったものだったが、彼らの翻訳事業はそうした制約を感じさせない本格的なものだった。ギリシャ語とアラビア語の語彙の意味領域的な違いや文法構造の根本的な差異をはっきり意識し、アリストテレスの真意を可能な限り深い次元で捉えていた。
 このような解釈によってはじめてアリストテレスの論理的知性が、セム的一神教であるイスラームの宗教的感情に受容されやすくなった。ギリシア世界は本来多神教的であり、純粋なアリストテレスの思想は、そのままでは、到底セム的一神教の宗教的要請を満足させる世界像を提供するものではなかった。
 アリストテレスの哲学がイスラームの哲学――たとえ純思弁的・合理主義的なスコラ哲学という形であっても――となるためには、至高最善の絶対者を存在の源として、そこから最下の物質界の形成に及ぶ整然たる段階的宇宙観にまで作り直されなければならなかった。この重大な役割を果たしたのがプロティノスを代表とする新プラトン的流出論だった。
 プロティノス的「流出論」とその神秘哲学を数行で表わせば、「神、すなわち至高至聖の存在者は全存在世界の中心にある燦然と輝く光源であって、この光源から脈動しつつ迸出する光の波は悠遠悠大な宇宙に降り注ぎ、明滅交錯して五彩に映えわたり煌く。ゆえに人もまた内面に向かって瞑想を深め、物質的被覆を一枚ずつ破棄し脱ぎ捨ててゆくならば、次第に聖光が直接にその魂を照徹して、ついには現象的存在の帳はすべて取り払われ、魂は神的光源そのものの中に消融し、忘我脱魂、神人冥合の妙境を窮めることができるであろう」 ということである。(p182)
 (「忘我脱魂、神人冥合の妙境」とは真言、禅も新プラトン主義もイスラム神秘主義も、すくなくとも言葉で表現できるレベルではそれほど違ったことを言っているわけではない。多分このあたりが言語の思弁能力の限界域である。あとは数学と芸術しかない。その数学は 「根源粒子に対するプラトンの正多面体理論は、素粒子の世界は三次元特殊ユニタリー変換(SU(3))にかんする対象性を有しており、素粒子はSU(3)群の既約表現で分類され記述されるという現代物理学の理論と、その根本思想においてそう遠くにあるわけではない」 と、私にはちんぷんかんぷんのことを言う。)

 P306-8
 (神を認識の対象としようとするとき)時間は単に、我々に対して必然的に与えられる一つの「関係」にすぎず、決して実在ではない。我々の表象能力は、何か一つの存在者の始めを考えるとき、必ずその以前の時点に何かを措定せざるを得ない、これがすなわち時間である。
 空間もまた、時間と全く同じく「関係」にすぎない。何かを表象するときは、そのものは必ず時間空間という関係の中に現われるが、空間それ自体に中には上もなければ下という概念もない。時間と同じく空間も、神が我々の裡に創造したところの概念間の関係なのである。
 我々は、時間・空間と関係づけることなしには、この世の事物を表象できない。神まで、時間・空間的に表象する。しかし、それだからといって、神自身も時間や空間の中に在ると考えたり、神が時間・空間的に限定されていると考えたりするのは誤りである。現象界を離れたところに、時間・空間は客観的になんらの実在性も持ってはいない。