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井筒俊彦 「イスラーム思想史」 3

 十二〜三世紀、新プラトン派とは別に、西欧キリスト教哲学に深甚な影響を及ぼした第一級のイスラーム思想家に、当時イスラム支配下にあったスペイン・コルドバのアヴェロイス(=イブン・ルシド)がいる。彼の手になるアリストテレス注釈のほとんどは、発足間もないパリ大学の学僧・知識人によってラテン語に翻訳され、トマス・アクイナス、ロジャー・ベーコンをはじめとするヨーロッパ中のキリスト教神学者に貪り読まれた。カトリック神学は、以下のようなアヴェロイス解釈のアリストテレスによって思弁の高みを極めたといわれている。しかし同時に時間、運動、質料、形相、可能態、現実態などアリストテレス哲学の重要な鍵概念は、カトリック教会にとって危険な異端思想に根拠を与えることにもなった。
 ( アヴェロイスは――アリストテレスに倣って――宗教の真理と哲学の真理は扱うカテゴリーが異なり、神学的に真である命題も哲学的には偽であり得ると考える瞠目すべき人であったから、当時のキリスト教的自然観の転換にも大きな影響を与えた。)

 p355
 「時間は元来、運動があってはじめてあり得るものであり、運動は物があってはじめて起こり得る。従って世界も何もない絶対の虚無においては時間を考えることは意味をなさない。神は宇宙を創造するとともに、時間をも創造したのである。」
 「一体、多くの神学者がこの問題で誤謬を犯したのは、世界創造ということを、何時か、時のある一点において起こったと考えたからである。神の創造は一回起こって、それで終わってしまったものでは決してない。全てのものが生じるということは要するに変化するということであり、変化には基体がなければならないが、この変化の基体となるものが質料である。質料は形相を容れる容器として、ありとあらゆる形相を始めから潜勢的可能的に含有しているのであって、質料の中に潜在している形相を引き出して現実化することがいわゆる創造なのである。だから創造は一回限りのものではなく、世界は一瞬ごとに“つくり変えられて”いるのである。」
 P360
 「個人個人で別な知性というものはない。人類としての、唯一同一な普遍的知性のみがあり、個々の人間の知性は、その「フォルム」である形相としての普遍的知性がすべての個人のうちに質料的知性として顕現したものである。したがって人間の知性は、個人的肉体の死後、人類としての普遍的知性のうちに消融して永遠に存続するのである。普遍的知性だけが唯一不滅であって、個人は(アリストテレスがそうであったように、生きている間は可能性としては存在した)その永遠的要素を普遍的知性のなかに還消させつつ、肉体の死とともに完全に消滅し、去る。」
 P376
 アヴェロイス(=イブン・ルシド)によれば、神にかかわる人間にも三つの種類がある。
 「1 神は天にいると答える一般的俗人 
  2 神は到るところに遍在すると答えるべきところを天にいると答え、神を空間的に限定していることに気づかない神学者 
  3 神が空間にあるのではなくむしろ空間が神の中にある考える最高の精神段階の哲学者」
 P382
 哲学者と預言者の違いについても、アヴェロイスは歯に衣を着せない。 
 「普遍的知性が個人の精神に働きかけるに際して、その作用が知性だけを円成させるにとどまるときは哲学者が生まれるが、知性だけに停止せず想像力にまで作用を及ぼすとき、そこには預言者が生まれる。普遍的知性が知性を通って想像力に反響するとき、純粋観念は象徴的表象に移し変えられ、宗教的真理として現れるのである。これが知性を働きかけず直接に想像力に作用してしまうときは、せいぜい占いや夢判断くらいしかできて来ない。」