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ハナ・アーレント 「全体主義の起源」第二巻「帝国主義」 5

 p183
 十九世紀の実証主義的進歩信仰はすべての人間は生まれながらに同等(同権でなく)であり、現実の差異は歴史的・社会的環境によるものにすぎないことを立証しようとした。環境と教育の改変と画一化によって人間を同等にすることは可能であるとした。
 同じく不徹底な実証主義・ダーウィニズム信仰を根に持つことで、各民族は生まれながらに自然によって特異性を与えられているという人種イデオロギーが生まれた。民族は動物学的な種のモデルに従って理解され、ドイツ人とロシア人の違いはオオカミとキツネの違いと同じとされた。神に選ばれた「捕食者」と同じく神に選ばれた「犠牲者」がいるだけなのであり、政治の法則は動物界の掟と同じなのである。
 p191-197
 種族主義理論の本義からは、逆説的に言えば、ユダヤ人こそ民族の唯一のモデルであり、歴史を通じて守り抜かれた彼らの血族的組織は汎ゲルマン(スラブ)運動が見習うべきものであると見えた。離散状態における彼らの生命力と勢力は、種族主義理論の正しさを最もよく証明するものとさえ思えただろう。
 西欧諸民族と東欧・南欧の「劣等」諸民族の違いは土地との結びつきに関する相対的相違に過ぎないが、ユダヤ人となるといかなる領土も彼らは無しで済ませることができ、さらには国家や共通言語さえ、極度の発達した種族意識にとっては不可欠でないことを示していた。
 こうしたことに加えて、欧州各地で一般社会に同化されていたユダヤ人たちは、イスラエルの神への信仰を失っても選民としての主張は放棄していなかった。この同化ユダヤ人の意識こそ、歴史に記憶された業績にでなく自分たちの心理的肉体的特性に基盤を求めるモッブたちの種族ナショナリズムに、酷似ていた。
 モッブたちはそれを「ドイツ的なるもの」「ロシア魂」と呼んでいたのだが、一方で同化ユダヤ人たちも自分たち一人一人を曖昧模糊とした「ユダヤ性一般」の体現者と感じ、「地の塩」と名づけていたのである。
 社会からはみ出していたモッブたちにとって、人類救済のために一民族が選ばれたとするユダヤ的観念と、他民族を蹂躙するために自民族が選ばれたとする種族意識の相違を理解することは困難だった。なぜなら種族的ナショナリズムとは、神が一民族を選んだ、そしてその民族こそ自分たちだと主張するすべての民族宗教に可能性として潜む倒錯であるからである。
 ユダヤ人という古代からヨーロッパに生き残った唯一の民族が、もしこの倒錯を免れていたら、いかに厚顔無恥なモッブ指導者でも民族紛争に神を担ぎ出し、自分がお膳立てをした通りに神の決定が下ったと主張するような真似はできなかったろう。
 種族主義のユダヤ人憎悪は、神が最終的勝利の約束を与えた民族はもしかしたらやはり自分たちではなくユダヤ人かも知れないという、わずかに残ったキリスト教信仰に由来する迷信的不安から生まれている。ユダヤ人は見かけとは反対に、終末のときに世界の支配者となるという、理性的には捉えられない保証を与えられているのではないかと人々は怖れたのである。
 p201
 ロシアの帝室を取り巻いていた擬似神秘的雰囲気は、つねに匿名の、理由開示も正当化もなされない政令によって統治を行なう中央集権官僚制の典型的産物である。この国ではひとりの人間をおそう出来事は、筋道の通った説明や注釈が一切存在しないから、逆にあらゆる解釈が可能となる。革命前のロシア文学の著しい特徴である無限の思索の遊戯において、世界の総体が何か無限の神秘を内包し、底知れぬ深さを覗かせるものに見えるのはその反映である。この「神秘性」はスターリンにも、それ以降にも確実に引き継がれた。