アクセス数:アクセスカウンター

ハナ・アーレント 「全体主義の起源」第二巻「帝国主義」 6

 p216
 大陸の政党の不幸は、一階級あるいは一集団の利害を国民全体あるいは全人類の利益とさえ一致すると証明しようとしたことだった。だから「ブルジョアジーの経済的膨張は歴史の進歩そのもの」であったり、プロレタリアートを人類の指導者と呼んだりした。
 これに対してイギリスでは政党の上に立つものは象徴(としての国王)しかなく、政党が全権力を握る国家そのものであり、しかも選挙によってその支配期間は限られているから、ブルジョアジープロレタリアートだけの利害を代弁していては、選挙による明日の支配は保証されない。
 だからイギリスの政党は一階級の偏った利害の理論的正当化などが不必要となり、すべての階層をひきつけ、国政を受託するために協力しなければならないことを自覚した組織になるのである。その結果、二大政党いずれもが偏狭なイデオロギーによるファナティズムを排することになった。
 p243
 「チェコスロバキアは単なるチェコ=スロバキアではなく、チェコ=ゲルマン=ポーランド=ハンガリア=ルテニア=ルーマニア=スロバキア(という七つの民族の烏合の衆)である(ムッソリーニの演説)。」バルカンの諸国が戦後において国家たりえたのはソ連の強圧支配があったからに他ならない。
 冷戦終了後のバルカンの混乱は、国家は民族主義というファナティズムを排除することでしか安定しないことの、何よりの証明である。もちろん「民族」は前史時代の氏族・部族まで遡るので、現在も氏族・部族が社会に大きな位置を占めるアラブ国家がファナティズムを克服して安定するとはだれも考えていない。

 p247
 スイスが多民族国家がにもかかわらず安定しているのは、三つの民族がそれぞれにフランス、ドイツ、イタリアにおいて完全に民族的野心を実現させえたという幸運に恵まれたからである。
 p281
 諸権利を持つ権利――これは、人がその行為や意見に基づいて人から判断され、無国籍者のように一切を無視されることがないシステムの中で生きる権利のことである――というようなものが存在することに気づいたのは、これを取り戻せない人々が数百万も出現してからのことである。
 p285
 人権擁護団体の言う「人権」は無意味な抽象以外の何ものでもない。いま、神や「自然」が法の源泉になりえない以上、権利とは具体的にイギリス人の権利、ドイツ人の権利というように或る国民の権利でしかありえないのは、ユダヤ人とイスラエル国家の例が証明している。チベットでもウィグルでも、「チベットに生きる人」「ウィグルに生きる人」がその地での権利を要求して、それを北京が苦々しく思うからこそ、人権が迫害されるのである。
 先の大戦のとき、政治的資格を失い赤裸の「人間」になってしまったひとには、世界はなんら畏敬の念を示さなかった。フランス人権宣言に異議を唱えたエドマンド・バークは「生まれながらの権利」などは裸の未開人でも持つ権利ではないかと言ったものである。
 
 全体主義の起源』全三巻は小坂井敏昭『責任という虚構』に教えられて知った本だった。二十世紀最高の政治哲学書というのは小坂井氏の心からのオマージュだった。
 ハナ・アーレントへの尊敬をかくさない丸山真男がどれだけをこの本に負っているのかは、文献校訂に興味がないのでよく分からない。丸山が、一事件に対する偏見や強引な文献解釈でたくさんの誤りを犯しているように、ハナ・アーレントもきっとそういうところがあるだろう。しかし熊野純彦が『西洋哲学史』で言うように「丸山の徂徠像は、実証的にはすでに批判しつくされている。・・・丸山に代表される近代主義が問題とされてからも、すでに久しい。しかし私たちは、それでは、別のたしかな近代像を手に入れているのだろうか。」
 十九世紀末から二十世紀の三分の一までの、モッブの暴力描写とナチ権力のファサード構造暴露は、私にとって丸山の「天皇周辺の無責任の宇宙」描写や日本人の「異議を圧殺した和」による共同体意識暴露がそうであるように、百年の批判に耐えるように思う。
 資本主義はもはやイデオロギーではなく、「滅亡までの永久運動」としての資本主義しか人類にはありえないことがはっきりしてきた。なぜなら、市場経済の中ではモノの売買自体が将来に向けての投機そのものであり、投機家とは生産者や消費者に対立する特別に異質な人種ではないからだ。(善良な)生産者や消費者の年金のかなりの部分は、(悪人であるはずの)投機家の投資利回りに支えられている。
 「帝国主義」や「覇権主義」といった政治的「外皮」は、政治理念が経済構造をリードすると信じられていたロマンチックな時代の「幻の」敵だった。いま資本主義は数学理論を駆使して自己運動の速度をますます速めており、投機家たちの電子マネーはかつてのナチのあけすけよりももっと巧みに、私たちの内部に忍び入って全員を跪かせる。抵抗は大津波の前の木造家屋のようである。